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沈黙の3日間、タイで立ち止まった話
投稿日 2026.01.24

何も話さず、スマホも見ない。それが3日間続く。
アユタヤで行われているヴィパッサナー瞑想修行に、実際に参加してきた。
ヴィパッサナー瞑想では、沈黙が守るべきルールになる。
タイ人にとっての瞑想修行
タイは仏教国として知られているが、多くのタイ人にとっての仏教実践は、日常的な瞑想よりも、功徳を積む行為や伝統的な儀礼に重きが置かれている。
瞑想修行は日常ではなく、生活を一度止める特別な時間に近い。
そのため、在家の人が参加する瞑想修行は、仕事や生活から距離を置くための短期的な「区切り」として認識されている。

参加者には若い年代の姿も珍しくない。
静寂の中に身を置くことで、一度立ち止まろうとする人も増えている。
やることは単純で、静かに座り、体や呼吸、浮かんでくる考えや感情を、良し悪しをつけずに眺め続ける。直そうともしないし、答えを出そうともしない。
ただ、自分の中で何が起きているのかを、そのまま見る。
タイに住む多くの日本人も、日々、煩悩や忙しさに振り回されている。
話を聞くだけでも、一度は体験してみる価値があるように思えた。
一番うるさかったのは、自分の中だった
ヴィパッサナー瞑想はそう単純ではなかった。
外からの刺激が消えた分、今度は頭の中の音だけが、はっきりと聞こえるようになる。

仕事のこと、人間関係、将来への不安。普段の忙しさに紛れていた雑念が、次々と頭の中を駆け巡る。
ヴィパッサナー瞑想は自分の内側を観察する修行だが、はじめに向き合うことになるのは、この雑念そのものへの不快感だった。
消えない雑念と、それをどうにかしようとする自分。その繰り返しが、ほとんど一日を占めていた。
考えても仕方のないことを、延々と考え続ける。
普段の生活でやり過ごしていた「無駄な時間」だけを切り出したような一日だった。
ただ、その状態が、ずっと続いたわけではなかった。
2日目に入った頃
2日目に入った頃、退屈だという感覚は相変わらずあった。だが同時に、それまでとは少し違うことが起きる。
胸のあたりがざわつく。理由はわからない。少し息が浅くなる。その直後に、仕事のことや人間関係のことが浮かんでくる。いつもの流れだ。
ただ、この頃から、その順番に気づき始めていた。
不安な考えが先にあるのではなく、先に身体が反応していて、考えはあとから追いついてくる。そんな感じだった。

たとえば、何もしていないのに落ち着かない。その感覚が出た瞬間、「暇だ」「意味がない」「早く終わらないか」という考えが自動的に出てくる。考えて不安になるというより、身体の違和感に理由をつけているだけだった。
気づけば、考えそのものよりも、その手前に意識が向く時間が増えていた。
考えが浮かんでも、すぐには追いかけない。「また始まったな」と気づくだけで終わる瞬間が、ほんの少しずつ増えていった。
退屈と不安の区別も、以前ほどはっきりしなくなっていた。どちらも同じ場所から立ち上がってくる感覚に見えたからだ。
劇的な変化はない。心が軽くなったわけでもない。ただ、反応と反応のあいだに、わずかな間ができていた。それだけだった。
町の音が、少し速く感じられた
修行が終わり、町に戻った。
通りを歩くと、人の話し声や車の音が、思っていた以上に速く感じられた。
クラクションやエンジン音がうるさいというより、流れそのものが早い。時間が前のめりに進んでいるような感覚だった。
スマホを手に取ると、指が勝手に動いた。通知を確認し、画面をスクロールする。
その一連の動作に、ほとんど意識が介在していないことにも気づく。
そこで初めて思った。
こんなふうに、何もしていない時間を、これだけ長く過ごしたのは、いつ以来だろうか。
懐かしいと感じたわけではない。何かを思い出したわけでもない。
ただ、刺激の少ない時間に身体が一度戻っていたことを、町の速さが教えてくれただけだった。
ノスタルジーとは、意味や物語ではなく、こうした感覚のズレとして現れるものなのかもしれない。

【関連記事】
アユタヤで参加したヴィパッサナー瞑想修行について、場所や流れ、外国人参加の方法などは、タイ一択の記事で詳しくまとめています。
>>タイ・アユタヤのワットマヘーヨンで体験した、3日間の本格ヴィパッサナー瞑想修行【外国人参加OK】
ライタープロフィール
リーさん
バンコク在住。2017年よりアフィリエイト収益を基盤に移住し、SEO特化WEBライターとして活動。 タイ旅行とホテル情報を中心に発信するタイ旅行ブログ『タイ一択』を運営。 最新の現地情報はX(旧Twitter)やInstagramでも発信中。





















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