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- [連載]タイの考察 〜オンナとタカダと、時々、チョメチョメ〜
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第12回「12歳で南部に向かい働き始めた乱暴者 スという女(後編)」
投稿日 2018.06.30
ロイエットでスの一面を見たタカダ氏。
中編はコチラから。
本性を現し始めたス
ロイエットから戻ってしばし半同棲のような形がオレとスの日常になった。
「エビータ」で仕事を終えるとラチャダーに帰らず、同じペッブリー通り沿いだったうちにスが戻ってくる。
そんな状態だ。
その間、エビータの女の子たちとの飲み会に連れて行かれたりなど、当時のスの職場の友人らとも顔見知りになった。
これは一種の防衛策だったのだろう。
スは店の友人とオレを会わせることでオレが少なくとも彼女らと肉体的な繋がりがないようにするためと、オレが遊んでいるところを目撃したら連絡が来るようにという意図があったと思う。
完全に一緒に暮らしていたわけではないので自由な時間もあって、オレは普通に毎日飲み歩いてもいた。
そんなある日、ふと、コラートのパーンはどうしているのかと思い、電話をかけてみた。
通じるやいなや、パーンの泣き声が聞こえてきた。
そのときに初めてロイエットのあの小川で泳いでいるタイミングでパーンが電話をかけてきたことを知った。
スはパーンに対し「なんだ、てめえは」といった育ちの悪さを滲みださせた口調だったらしい。
オレの夫に手を出すとはいい度胸しているな、みたいなことをタイ語のもっとも汚い言葉で捲くしたてたようだ。
田舎の女性は籍を入れるという概念がないので、彼氏=夫(プア)と呼ぶ。
スは頭の回転が早く、パーンが1言えば100を返すようなことをした。
考えてみると、こういう女とつき合ったから今のオレのタイ語もよくないのかなと感じる。
とにかくパーンは面喰らってしまい、それ以来オレに電話をしなかったようだ。
パーンには申し訳なくて、ごめんと謝ったが、パーンにはオレがすべてを認めたと受け取られたようだ。
そこで電話もパーンとの関係も終わった。
タイの女性は嫉妬深く、アグレッシブに男を引き留めようとする女性もいるし、パーンのように引いていく人もいる。
スがちびっ子ギャングのようになっていく・・・
とんでもない女とつき合っているかもしれないと思い始めていた。
ある日の「ワールド・トレードセンター」(今のセントラル・ワールド)で、スと一緒にいたときにちょうどゴーゴーの女の子から電話がかかってきた。
当時はワン切りのコールバックが当たり前で、話してはいないのだが、液晶に女の子の名前が出ていたのをスはあざとく見ていた。
怒り狂うスを宥めてもエスカレートするばかり。
終いには観ようとしていた映画館の前で、たくさんの人がいる中「どこのマ○コだ、こら!」と怒鳴り始める。
さすがに走って逃げた。
遠くから「待て! マ○コしに行くのか!」という怒鳴り声が響いていた。
怖すぎる。
そのころから会う回数を減らしていき、なんとかスから逃げようとオレは画策し始めていた。
そんな、2003年の2月だ。
忘れもしない2月14日。
タイではバレンタインは男女関係なく、好きな人にバラを送るのが一般的だ。
その日、スからラチャダー・ソイ8のディスコ「ハリウッド」にエビータの友人らといるから来いと言われた。
せっかくのバレンタインだからと言われ、仕方なく向かった。
しかし、つまらない。
スにすら興味がないし、ハリウッドよりは隣のディスコ「ダンス・フィーバー」派だったオレはなんら楽しくない。
口実をつけてさっさと逃げるため、オレはバラの花束を買った。
バレンタイン当日は町中に物売りがバラを抱えて売っているので、それを10本くらいだが買って持っていった。
物売りが扱うくらいなので、安いし、包装がしっかりしているわけでもなく、トゲもそのままのただの花束だ。
そんなときに限ってオレの友人らはダンスフィーバーに遊びに来ている。
オレにも誘いの電話が入り、スには友人がいるからと告げて少しだけ抜け出した。
30分くらいでハリウッドに戻り、またダンスフィーバーに。
これを繰り返しているうちに段々ダンスフィーバーの時間が長くなり、最終的には閉店ごろはずっと友人らと飲んで騒いでいた。
このまま帰ろうかと思ったら、ダンスフィーバーを出たところでスの御一行様に遭遇してしまう。
スは怒っているかと思いきや満面の笑顔。
スはスで楽しんでいたのかとオレは呑気に思った。
その瞬間だった。
目の前が真っ赤に染まる。
スがバラの花束でオレの横っ面をフルスイングで殴ったのだ。
トゲつき。
しかもオレが買ったやつ・・・・・・。
花びらが全部散るまで殴られ、顔は傷だらけになる。
スの友人らが止めに入ってくれて解放された。
翌日、オレは用事があって早朝のフライトで日本に行くことになっていた。
いいタイミングでスとは終わった。
腐れ縁はなおも続いたが、オレに変化があった
それからしばらくの間はなにもなく過ごし、またオレも日本で貯めてきた金が全部夜遊びで消え、バンコクで働き始めていた。
2003年の7月ごろだったかと思う。
スから突然電話があった。
客に連れられてポイペトのカジノ・ホテルにいるという。
スは未成年なので部屋で待たされていて暇なのだと言った。
それから数週間後にまた電話が来て、部屋に来た。
ここに住まわせてほしいと頼まれた。
聞くと、ちょうど2003年1月に元マッサージパーラー経営王のチューウィット・カモンウィシット氏がスクムビット通りのビアバー街を破壊して逮捕され、警察に賄賂を払っていたことなどを暴露したことに関係していた。
その煽りで取り締まりが厳しくなり、未成年者が夜の店で働くことが困難になってしまい、スは仕事がなかったのだ。
カジノに行った客も単発で、一文無しでもうなにもないのだという。
オレも当時は手取り2万バーツくらいで働いていた。
それでも質素に暮らせばどうにかなると一緒にスと暮らし始めた。
たまにぶん殴られたり、酔っ払って帰ってきて電気コードで縛られた上で蹴っ飛ばされるなどもあった。
今は日本大使館になっている場所に「ルンピニ・ナイトバザール」が当時できたばかりで、特設コンサート会場で有名歌手が全員揃うようなビッグイベントが3夜に渡って開催された。
初日にまず行くと会場で大乱闘があり、翌日は夕方からすでにセントラル・ワールド前で銃撃戦があって巻き込まれそうになった。
当然会場は大混乱で、近くで発砲されるなど散々な目に遭った。
そんなトラブルが続いたが、オレは結構幸せを感じていた。
仕事から帰るとスが飯を作って待っていてくれる。
結婚してもいいかもしれないと思った。
しかし、結局その同棲生活は3ヶ月ももたなかった。
12月に入る前のある日、仕事から戻ったらなにもかもがなくなっていた。
テレビや冷蔵庫はスが持っていたもので、なにかを盗まれたわけではないが、スは自分のものをすべて持っていなくなった。
仕事がみつかったのか、ほかに男ができたのか。
質素な生活がスには耐えられなかったようだ。
正直このときは辛かった。
ぽっかりと穴が空いたような感覚。
まあ、年末には数千バーツだけだがボーナスをもらったので、普通にゴーゴーで遊ぶくらいには回復していたけれども。
数ヶ月して、またスと再会した。
偶然だった。
パッポンの「タイバー」の前を通ったときに入り口からスが踊っているのが見えたのだ。
2004年の2月か3月か、そんなころだ。
とりあえず店に入り少し話したが、結局、なぜ出ていったのかはよくわからなかった。
スは若かった。
そんな時期だったんだろうな、ということで納得するしかない。
今考えてみれば、オレが今の妻と結婚するタイミングにすべてがセットアップされていったようにさえ見える。
とりあえずオレの中であまりの年の差(スとオレは9歳の差があった)というのは埋められない溝なのだと学んだ交際だった。
あと、若いイサーン女は怖い、ということも再確認するに至った。
【プロフィール】
高田胤臣(たかだたねおみ)
1977年東京都出身のタイ在住ライター。
1998年初訪タイから2006年に結婚するまでにゴーゴー嬢、タニヤ嬢、マッサージ嬢など夜の女の子と一通りつきあい、タイの低所得者層から中流層の生活を垣間見てきた。
著書に「バンコク 裏の歩き方」や「東南アジア 裏の歩き方」など彩図社の裏の歩き方シリーズ関連、Amazon Kindleの電子書籍など。
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