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- [連載]タイの考察 〜オンナとタカダと、時々、チョメチョメ〜
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第23回「級友のような存在のタニヤ嬢 ボーという女」
投稿日 2018.12.28
ライター専業になってまもなく8年になろうとしている。
以前は電子部材の専門商社で営業をしていたが、そのときの接待用のキープ的な存在だったボーという女の子がいる。
お互いに特にこれといった感情もなく、ただただ友人としてのつき合いが続いていた。
それは今も継続中だ。
そんな彼女のことや、かつてのタニヤのことをふと思い出したので書いておきたい。
タニヤは昔は高かった
タニヤというとリーズナブルに遊べる歓楽街という印象が一般的かと思う。
しかし、オレにとっては真逆のイメージがある。
というのは、現在の移住以前に1年ほどバンコクでタイ語学校通いをしたことがあり、そのころのタニヤは今とはまったく違っていたからだ。
語学留学中はアパートをスリウォン通りに借りていたことで、よくタニヤは通っていた。
当時はゴーゴーバーなどにも遊びに行くことはなかったが、さすがにパッポンやタニヤがどういったところかは心得ていた。
当時も今のように客引きをしていたので、大体の感じは通ればわかる。
ただ、今のようにフリーランスの客引きはいなかったので、まだすっきりしたエリアではあった。
そもそも2000年ごろはまだタニヤでセット料金を用意している店はほとんどなかった。
むしろあのころの「Gダイアリー」ではマスザキさんという名物店のオーナーが連載を持ち、いかにタニヤが高尚な遊び場かを謳っていた。
オレのようなTシャツの若造に声をかける人なんていなかった。
それに当時はパッポンでシンハビールが80バーツの時代だ。
タニヤはオレのような働いていない長期滞在者には到底行けるような場所ではない。
ときどき知り合いが連れて行ってくれたが、当時はまだ店内も高級を売りにして重厚感があって、なんか落ち着かないところという印象だった。
それが2003年前後から徐々にセット料金の店が出てきて遊びやすくなったが、第一印象がそんな感じなので、しばらくはなかなか遊びに行けなかった。
2005年くらいになってから専門商社に入り、現地採用とはいえ接待などもだんだんと任されるようになってきてからタニヤに行き慣れてきた。
2006年とか2007年くらいの話だ。
このころはもうタニヤは完全に安い遊び場に方針がシフトされている店ばかりで、かつては目もくれなかった若造にまで声をかけるようになっていた。
それでもオレはタニヤ好きだ
2010年以前にはすでにタニヤの悪評が目につくようになっていた。
客は増えたのだろうが、それに間に合わせるために雇う女の子たちの質が著しく低下していたのだ。
日本語はできない、悪態をつくなど、ひどい店がいい店の足を引っ張るような状況ができあがりつつあった。
そのため、バンコク在住男性の大半はスクムビット通りに行くようになっている。
こちらは昔ながらのやや高めの料金設定ではあるが、リピーターを求める昔のタニヤのような店ばかり。
女の子の質も高く、タニヤは敬遠されるようになってしまった。
しかし、オレはむしろタニヤのカラオケの方が好きだ。
スクムビットも特定の女の子ができれば居心地はいいだろう。
逆に言えば、オレのような慣れていない人や初めての人には優しくないのもまたスクムビット界隈のカラオケの特徴でもある。
それに、システム的にスクムビットのカラオケはじっくりと腰を据えて飲む場所でもある。
気に入った女の子がいる店なのだからそれは当然ではあろう。
ところが、プライベートよりは接待利用が多いオレみたいなのにはタニヤの方が都合がいい。
客も男で、せっかくタイに来たのだから女の子と遊んでみたい。
そこにオレがいれば安心だ。
そうすると欲が出てきて、たくさんの女の子からいい子を選びたいと思うようになる。
要するにハシゴをするにはタニヤは楽なのだ。
なによりタニヤは日本人街として昔から知られる。
10年以上前はタクシーにタニヤと言うより「ソイ・イープン(日本通り)」と言った方が通じたくらいだ。
だから和食店も多くていい。
かつては高級店が多くて行きにくかったが、「らーめん亭」や「桃太郎らーめん」は以前からあったし、日本人が増え始めてからは「牛野屋」も出てきてリーズナブルな飲食店が充実し始めていた。
いつだったかは記憶が曖昧だが、少なくとも2010年以前には製麺機を持ち込んで深夜営業するうどん店もあった。
冷やしたぬきうどんなんか絶品で最高だったが、あっという間に潰れてしまった。
場所はスリウォン通りのデュークスタワーの1階だった。
時代がまだ追いついていなかったのか。
今あの店があったら、安いわおいしいわで大ヒットしていたことだろう。
接待時にオレが選ぶ女の子としてボーに出会った
そんな接待用に使っていたタニヤにはプライベートでも行くが、いずれにしてもオレはタニヤではペイバーはしない。
正確に言えば、できない。
というのは、妻は素人ではあるが、結婚前に一緒に住んでいた叔母や叔母の交友関係にタニヤ関係者が少なくなくて、妻を知っている人が結構いるのだ。
当時はスマートフォンなんてないし、ネットも発達していなかった。
ところが、今以上に当時はネットワークというのが強固で、夜の女性の通信網は光りより速いとさえ言われていた。
オレの友人はナナの女の子とつき合っていたが、タニヤ通りに入って2秒後に「タニヤでなにしているんだ」という電話が入ったほどである。
しかし、女の子も仕事で来ているわけだ。
オレのようなペイバーをしない客はどちらかと言えば迷惑な客の部類である。
また一方でオレの方はタイに住んで何万回と「なぜタイ語ができるのか」、「どうしてタイに住んでいるのか」といった質問をされている。
そういった初歩的な会話も面倒だ。
そこで特定の女の子をつけるというのが当時のやり方だった。
ペイバーしないことを理解していてくれていて、かつそんなに売れっ子ではなくて、いつ行っても大体店にいる子。
そんな子を探していて出会ったのがボーである。
当時オレは20代後半、ボーは20代前半だった。
8歳くらい違った。
のちにこの年齢差がどんどん縮まり、現在は5歳差くらいになっている。
最初の年齢がウソだっただけの話だが。
彼女は「さいあい」という屋根裏にあるような小さな店にいた。
今この店はずいぶんと大きくなったが、当時は穴場的な店で、個室も無料で使わせてもらい、公私でよく使っていた。
タイの夜遊びで最も興奮したのは
ボーは「戦場にかける橋」で有名なカンチャナブリ県の出身で、子どももいたが、親に預けっぱなしでまともに自分で育てたことがないと言った。
だから、というのも変な話だが、彼女の自慢は母乳で育てたことがないので経産婦ではあるものの美乳であることだった。
まあ、オレには確かめる術もなかったけれども。
そうして10年超の月日が経ち、ボーも何軒か店を移籍したのち、現在は「世界のタズヤン」で有名な田附氏の店「F1」にいる。
(※高田注:ボーは私生活でのニックネームで、F1では違う名前です。念のため)
以前、知り合いが行きたいというので連れていったときに初めて移籍していることを知り、彼女を指名して席に着いた。
その時点では久しぶり(2年ぶりくらい)に会ったのでなにも考えていなかったが、「F1」は日本で言う「おっぱぶ」である。
数十分後におっぱいタイムが訪れ、オレはどぎまぎしてしまった。
ボーもそれは同じだったようで、胸をはだけるのを恥じらう。
それが妙にエロティックだ。
そして、初めて見た彼女の胸、乳首は本人が言うように、確かに美乳だった。
なんか、マジで興奮したよ、オレは。
同級生と風俗店で遭遇というエロビデオのシチュエーションがあるが、まさにそんな感じである。
ただ、ある意味では一線を越えたことで、その後ボーはタニヤ通りで呼び込みしている最中にオレをみつけるとベタベタとしてくる。
先にも書いたようにタニヤには嫁の知り合いがいるので、危険極まりない行為だ。
それは勘弁してほしい。
正直、タニヤで、いやタイの夜遊びで一番興奮したのがボーを膝に乗せて楽しんだあの瞬間である。
再びこの興奮を味わうにはまた10年の歳月をかけて女の子と友情を育まなければならない。
もっとちゃんと楽しめばよかったと今になって思う。
「連載終了のお知らせ」
23回に渡って連載させていただいた本記事は諸事情により最終回となりました。
愛読いただき、ありがとうございました。
【プロフィール】
高田胤臣(たかだたねおみ)
1977年東京都出身のタイ在住ライター。
1998年初訪タイから2006年に結婚するまでにゴーゴー嬢、タニヤ嬢、マッサージ嬢など夜の女の子と一通りつきあい、タイの低所得者層から中流層の生活を垣間見てきた。
著書に「バンコク 裏の歩き方」や「東南アジア 裏の歩き方」など彩図社の裏の歩き方シリーズ関連、Amazon Kindleの電子書籍など。
1 件のコメント
長い間お疲れ様でした。
インスタもフォローさせて頂いております。またの記載を楽しみにしております。
3年前から続く、MP閉鎖の影響か。タニヤのマルコポーロの閉鎖、そして高級連出しラウンジPegasasの閉鎖と全く面白ないタイに邁進してます。
次回作期待しております。