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- [連載]タイの考察 〜オンナとタカダと、時々、チョメチョメ〜
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第17回「パタヤのゴーゴーは素朴でよかった ムーという女」
投稿日 2018.10.04
地方の夜遊びシーンには正直者が多い
少なからずタイの夜遊びの常連になると、一度は感じる「苛立ち」はないだろうか。
例えば、目当ての女の子がいて会いに来た。
でも、いなければほかを見てからまた来ようかと思う。
ママさんに訊くと「今来る」と言われ座って待つも、その子が来ることはない。
店側としては金を払う客を逃がしたくはないだろう。
しかし、そんな些細な嘘は信用をなくして、長期的に見れば店の損になる。
こういうことがタイ人には多い。
タイ語ができると、さらにいろいろな嘘八百に出会うことになる。
特にタニヤは子どもがいても客にはいないと言うべきだとママさんが指導する店もある。
男も非日常に浸りたいから遊びに来ているので、女の子が経産婦だと冷めてしまう人もいることは理解できる。
でも、オレとしてはなんかそんな嘘、嫌だなと思う。
客にも失礼だし、ましてや当の子ども本人がそれを聞いたら悲しむではないか。
だから、オレとしては夜の世界にいたとしても、正直にいてほしいと常に思う。
そんな中ではやはりビーチリゾートのバーなどにいる女の子はわりとオープンに生きているような気がする。
2002年のパタヤでそう感じた。
今回はそこで出会ったムーちゃんという女の子の話をしたい。
当時はちょっと栄えたビーチリゾートという印象
2000年ごろから2003年にかけて、とにかくオレはゴーゴーで遊び倒していた。
当時それほどタイ語ができる人が多くなかったので、結構モテたと思う。
でも、向こうも仕事でゴーゴーにいるわけで、奢りもしない、チップもくれないという男は総合的には嫌われる。
しかも、つき合っているゴーゴー嬢、親しいゴーゴー嬢がいるとトラブルを避けるためにほかの嬢が近寄ってこなくなる。
ときには1年前に別れ、その女の子に新しい彼氏ができているとしても、噂だけが先行してしまい、新たに出会った嬢から敬遠されてしまう。
そんなわけで、なんか遊びづらさを感じてきたと思ったとき、ふと「なぜオレはわざわざバンコクに縛られているのだろう」と思った。
当時は仕事もせず、カオサンの安宿に1泊100バーツ程度で宿泊していた。
自由なのだ。
どこに行ったっていいじゃないか。
そう思い、オレはバスに乗ってパタヤに向かった。
当時はまだBTSもオンヌットから先は工事すらしていなかったし、バンナーの交差点も高速道路の高架がなく、どかんと巨大な交差点だった。
同時にパタヤも今ほどは流行っていなかった。
まずゴーゴーバー・エリアはウォーキングストリートが中心で、ビーチロードの小さなソイにいくつか点在するくらい。
ビアバーもせいぜいセカンドロードまでで、ソイの奥は沈没中の白人がたむろするような店があるくらいだった。
今だとディスコの「ハリウッド」はウォーキングストリートから離れた場所にあるが、当時はビーチロードとウォーキングのところからセカンドロードを渡って、寺の近辺にあった。
その辺りからソンテウに乗ると隣のジョムティエン・ビーチに行ける。
あのころはパタヤビーチとの間の小さな丘には建物なんて全然なかったし、今は新しい道路が繋がっているが、なにもない一本道だったと記憶している。
そんなジョムティエンに日本人がゲストハウスを開業していて、そこを定宿とした。
日本人男性は当時泊まってたカオサンのゲストハウスの昔の常連だったらしく、カオサンのゲストハウス経営者に紹介されたのだ。
奥さんも元レインボーの従業員だったはず。
そんな宿だった。
遠征先で出会った子豚ちゃん
ムーちゃんはたぶん「スーパーベイビー」という店にいたと思う。
ムーとは豚という意味だが、体格も顔もまったく豚ではなく、むしろ色白でかわいい子だった。
小柄で、東北地方のチャイヤプーム県出身と言っていた。
当時オレが25、26くらい。
ムーちゃんは23歳だったはずだ。
聞くと、子どもがいて、働かなければならないからパタヤに来たと話していた。
バンコクでは子どもの存在を隠す人ばかりだった当時、オレの中でその言葉がとても新鮮に聞こえた。
あのころのパタヤはまだ観光客が今ほどは多くなかったので、働くならバンコクの方がいいのでは? と問うとまた意外な答えが返ってくる。
「バンコクは都会過ぎてワタシには合わない。パタヤの方がまだのんびり働けるからいいの」
そういう考えもあるのか、と感心した。
あのころのパタヤビーチは水質が悪く、泳げるような場所ではなかった。
だから、リゾートとしてはあまり価値が高くなかったが、素朴な女の子がいることにパタヤのよさを見いだした。
ちなみに、当時の客足はそんな状況なので、人気店でもバンコクほど混雑はないし、一方で今のパタヤのようにバンコクよりも安くビールが飲めるわけでもなかった。そもそも当時のバンコクのゴーゴーだってビールはせいぜい80バーツくらいだったので、それほどの差はなかった。
ちょうどそのときはカオサンの宿にいたゴーゴー好きたちと一緒にいた。
朝、オレが出かけるところに声をかけてきたので「パタヤに遠征する」と言ったら、そのまま一緒についてきたのだ。
メンツが一緒だと結局遊び方も同じになる。
我々はゴーゴーで遊び、そのまま「ハリウッド」に向かった。
バンコクでの王道の遊び方だ。
ムーちゃんも行きたがり、詳しい人がいた方が安心だとオレは珍しくペイバーした。
バンコクの「ハリウッド」は近くの売店で無料カードをもらえばウィスキーはロハになった。
それと同じだと思っていたら、パタヤは違う。
ケチな我々は途方に暮れそうになったが、ムーちゃんに聞くとディスコの入り口の真ん前に構える酒屋でウィスキーを買えば安く、持ち込み料がかからないと教えてもらった。
地元情報を教えてくれる、なんていい子なんだろう。
ますますオレはムーちゃんとパタヤが好きになった。
オレはただ約束を果たしただけだが
「ハリウッド」の中で飲みながら、ムーちゃんとオレは抱き合ったり、踊ったりと楽しく過ごした。
ムーちゃんは耳元で「やっぱりバンコクの人は踊りが上手ね」なんて、今考えたら「おちょくってるのか、コイツ」と思うようなことにも喜び、有頂天になっていた。
そうして一緒にゲストハウスに戻り、一緒に寝た。
ただ、そのときは泥酔でなにもできなかったので、朝になって起きてから1回楽しんだ。
済むとムーちゃんはもう帰ると言った。
このとき、バンコクのノリで金を払う必要はないと思った。
ディスコでもあれだけアツアツの仲になったのだし。
しかし、ムーちゃんは金を請求してきた。
といっても、当時のことだ。
1,500バーツだった。
でも、払わなかった。
正確には「払えなかった」。
オレの財布には400バーツくらいしか残っていなかったのだ。
ATMに行けばおろせるが、面倒だったのもあるのだが。
ムーちゃんはそれは困ると言った。
まあ、そうだよね。
それにオレもムーちゃんを気に入ってたこともあって、彼女が困ることになることは気分がよくない。
とはいえ、ない袖は振れないので、「次に来たら必ず払うから」と約束して帰ってもらった。
いつになるかはわからないが、きっとまたパタヤに来る。
そうオレは思っていた。
そして、実際に1ヶ月くらいしてパタヤに戻った。
ムーちゃんに会いに行き、一緒に飲み、ペイバーをして別のバーで飲んだ。
そのときのムーちゃんはまるでオレが彼女の恋人であるような態度だった。
あのころのパタヤはリピーターが少なかったのかもしれない。
そうして例のゲストハウスで再び一緒に帰った。
部屋に着いてからすぐ、オレはムーちゃんにこの前の分だと1,500バーツを渡した。
ムーちゃんは「くれるとは思っていなかった」と言い、いい人だとオレを褒めちぎった。
そのまま、我々は朝まで過ごした。
起きて冷静になると、「また1,500バーツ発生するのか?」と思った。
学習能力のないオレは、今回も財布の中には500バーツも金が残っていない。
でも、ムーちゃんはなにも言わずに帰っていった。
パタヤは一見派手だが、やっぱり地方の町だ。
だからこそ、こう素朴でいい子がいるものなのだろう。
今もバンコクほどスレてはいないとは聞くが、たぶんオレが感じたかつてほどではないように見える。
オレはいい時代のパタヤを知っているな、と今思う。
ちなみにその後、ムーちゃんとは会っていない。
どうして連絡を取らなくなったかは記憶にない。
たぶん、そのあとにカオサンも嫌になって出ていき、働き始めたためにパタヤに行かなくなったからだとは思うが。
【プロフィール】
高田胤臣(たかだたねおみ)
1977年東京都出身のタイ在住ライター。
1998年初訪タイから2006年に結婚するまでにゴーゴー嬢、タニヤ嬢、マッサージ嬢など夜の女の子と一通りつきあい、タイの低所得者層から中流層の生活を垣間見てきた。
著書に「バンコク 裏の歩き方」や「東南アジア 裏の歩き方」など彩図社の裏の歩き方シリーズ関連、Amazon Kindleの電子書籍など。
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