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第5回「搾取と夜の女の苦悩を垣間見た エーンという女 (中編)」
投稿日 2017.12.08
前中後編の3部作。
「タカダ氏とエーンの馴れ初め」は前編をご覧ください。
新年が明けた途端に手のひらを返すオレ
エーンの自宅を出てオレはカオサンの安宿ママズゲストハウスの個室に入り、遊びほうけていた。
ただ、完全にエーンと切れたわけではなく、ズルズルとつき合いは続いていた。
たまに食事に行ったりするくらいだが。
このとき、確か2001年の年末年始に近かったと思う。
クリスマスは記憶にないが、カウントダウンはエーンと一緒だった。
今でこそタニヤやゴーゴーバーは主要な時期――クリスマスや年末年始、ソンクラーンは休んだときの罰金が高くてみんな出勤するが、当時は普通に休んでも問題なかった。
昼過ぎから外をぶらつき、夜にワールドトレードセンターに行った。
あのときはまだ伊勢丹が入居するセントラル・ワールドがそんな名称だった。
今でもテレビ中継されるこの場所のカウントダウンイベントはあのころも有名だったものの、今ほどの混雑はなかった。
歌手のステージを見ながらカウントダウンを待ち、バイヨークタワーのてっぺんに表示される時計を見ながらのカウントダウン。
そして風情もなにもない花火の連射。
2002年が明けた。
すでにオレとしてはトラブルを起こすエーンはお荷物と感じていた。
なにかしてあげるどころか、食事なんかは奢ってもらっていたしょうもない身分のくせに、だ。
年が明けた瞬間にエーンを自宅に帰し、オレはナナプラザに向かった。
カオサンの知り合いたちが「レインボー2」の前のビアバーにいるのを知っていたからだ。
当時ゴーゴーは3時くらいまでは普通に営業していた。
数時間ほど飲んで、その日はエーンの自宅に帰った。
合い鍵は持っていたがチェーンがかけられて中には入れない。
ワンルームだからベッドで寝ているエーンは見えるが、声をかけても全然起きない。
このときに異常を感じていればよかった。
何分か呼んでやっと起きたエーン。
酔っ払っていたのでその日はそのまま寝た。
その数日後、オレはトイレでパケを見つけた。
ムラサキの錠剤がいくつか入っていた。
ヤーイー、つまり覚醒剤だ。
エーンはよくある話だが、覚醒剤の常習者だった。
つき合った相手がそんなことになってほしくはないが、ここはタイであり、万が一火の粉がこちらに降りかかった場合、それを払いのける術はない。
オレはエーンから本格的に離れるつもりでカオサンに戻った。
やや奇行が目立ち始めてきたが、まだ序の口だった
そんな年越しをした2002年の始め。
エーンから離れて数日してから、エーンが働く店のママさんから電話がかかってきた。
「エーンに暴力を振るうとは、アンタ、最低の人間だ」
ものすごく怒っている。
まったくもってそんなことはない。
どこに逃げているのかとまでいわれ、オレは逃げも隠れもしないからとカオサンの宿の名前を告げる。
そうなると話が違うぞとママさんは思うわけで、そのときにヤーバーの話をした。
そのあとエーンと少し電話で話したが、クスリの影響下か、エーンは自分のウソと現実がわからなくなりかけているようだった。
さらに数日が過ぎたある昼間。
突然、エーンがカオサンに現れた。
様子を見に来たのだという。
もう会いたくないというと、無理矢理ポケットになにかを入れてきた。
見ると数千バーツ。
これは受け取れないと返そうとしたが、また来るとエーンは言って去って行った。
金で身体を売る仕事をしているからか、金で人を惹きつけられると勘違いしているのかもしれない。
段々とエーンが狂っていっているように感じた。
とはいえ、荒んでた人間にとって数千バーツは正直ありがたい。
一方では受け取ってしまった自分も情けなく感じる。
だから、宿の夜遊び仲間の日本人たちにピザを奢った。
ピザハットが近くにあったので、金を渡して買ってこさせ、みんなでビールを飲みながら楽しんだ。
このときの奢りをみんなで「タカダ祭り」と呼んだ。
それがそのうち金を持っている人がたまに奢るということを誰々祭りと称するようになり、日本に出稼ぎバイトをして戻ってきたときが一番金を持っているのでその人物が奢るという仲間内の習慣になっていった。
僕自身はそのあと日本に戻り、第2回のワンに追い出されて扇風機とたらいを持って戻るまでその祭りには参加していないが、たぶん、それが悪い沈没日本人たちの悪習になってしまったのだろう。
その後、かつてまだ雑誌だった「Gダイアリー」の誰かの人生相談で「カオサンの『祭り』で奢らされて……」と訴える初心者バックパッカーの投稿を見た。
すいません、オレが起源です。
結局エーンのカオサン詣に負けたが、帰国を決意
何度かエーンがカオサンを訪れる。
甲斐甲斐しく様子を見ていくようなことをされ、オレはとりあえず日本に帰ることにした。
金もないし、いろいろなことがストレスになっていたのだと思う。
ある日、バスの中で泥酔して寝てしまったようで、しかも血だらけになっていた。
車掌や運転手に終着地点でかなり心配されたが、そもそも盗られるものもなく。
これは強盗に遭ったわけではなかった。
後日、知り合いに聞かされたのだが、エーンとその日飲んだようで、エーンが彼女の自宅にオレを連れ帰った。
そして、口論になってエーンの部屋で暴れ、鏡だとかコップを破壊してケガをしたようだ。
近所の人に守衛を呼ばれ、追い出されたという。
幸いエーンには手を出していなかったのはよかったが、ひどい有様だ。
エーンは顔も決して悪いわけではなく、スタイルもよかったし、日本語もうまかった。
だから人気があった。
そうなると少しだけ同棲していた間も実際に一緒にいた日はほとんどなかった。
エーンとしてはだからこそ年末年始は休んで、ということだったのかもしれないが、オレはあんな感じだった。
あとになって考えてみれば、オレもエーンを好きだったのかもしれない。
好きな子が客とはいえ男と一緒にどこかにいる。
甲斐甲斐しくカオサンに来てくれたのもまた、オレは無意識のところで喜んでいたのかもしれない。
かといって足を洗ってもらうほどの金があるわけでもない。
そういった辛さが爆発しただと思う。
だから、2002年の2月、オレはエーンには黙ってカオサンから抜け出し、日本に向かった。
岡山とバンコクの遠距離恋愛
今でも憶えているが、東京に着いたのが土曜日だった。
翌日は地元の友人の引っ越しを手伝い、月曜の朝にバイトの求人誌を買い、夕方に面接。
翌日火曜日の早朝に上野から新幹線に乗せられ、岡山県倉敷市に入った。
車工場でバイトし、100万円以上を貯めてタイに移住する気だった。
これを最後に絶対に日本には帰らないつもりだった。
水曜日は入所者の健康診断。
ちょうど集団採用のタイミングだったので、面接官もノルマ達成のために急いだのだろう。
だから、有無をいわせずに列車に乗せたわけだ。
木曜は研修で、金、土は日勤でラインに投入された。
年度末なので残業時間が長かった。
そして日曜の夜から夜勤で1週間。
その後日勤1週間。
合計で約3週間、自分がどこにいるのかもわからずに働いていた。
当時携帯電話ではメールが見られなかった。
だから、3週間くらいの日曜日にやっと倉敷駅まで出て、マンガ喫茶でメール確認をしたときにエーンからのメールを見つけ、思わず喜んでしまった。
誰か共通の知り合いに聞いたのだろう。
オレがどこにいてなにをしているのか。
エーンは心配してくれていた。
ある日、寮に小包が届いた。
エーンからだった。
LMデーンが1カートンと、3万円が入っていた。
ほとんど金がなかった状態で、オレは嬉しかった。
久しぶりにビールを飲んだ。
せいぜい3ヶ月くらいと思っていたが、結局倉敷に7ヶ月いた。
ひたすら金を貯めるため、食事は工場の食堂と、月に1度だけ倉敷の100円ショップで買いだめするカップ麺。
アルコールは近くのスーパーで大きなパックの料理用日本酒だ。
あまりのやつれっぷりに寮のおばちゃんは自転車を貸してくれ、近くの商店のおばちゃんは賞味期限切れのパンをくれた。
体重も80kg前後から60kgに落ちた。
髪はロングになるかと思ったが、7ヶ月では案外伸びないものだった。
アフロヘアーにしてタイに戻ろうと思ったが。
6ヶ月が過ぎて8月になる。
ここまで徹底して節制すると人間、おかしくなるものだ。
エーンからたまに電話がかかってくることと、金曜ロードショーでジブリの『耳を澄ませば』の放映だけが楽しみになり、放送日が近づくとウキウキしてしまう。
完全に病んでいる状態だった。
エーンとは9月にタイに戻ったら一緒に暮らそうと話していた。
そのため、エーンはかつての部屋を解約し、新しいコンドミニアムの一室を借りた。
オレ用の携帯電話も買ってあるといった。
そして、2002年9月。
オレの本当のタイ移住が始まり、同時にタニヤに飲まれていくエーンに再びオレが壊れていきそうになった。
【プロフィール】
高田胤臣(たかだたねおみ)
1977年東京都出身のタイ在住ライター。
1998年初訪タイから2006年に結婚するまでにゴーゴー嬢、タニヤ嬢、マッサージ嬢など夜の女の子と一通りつきあい、タイの低所得者層から中流層の生活を垣間見てきた。
著書に「バンコク 裏の歩き方」や「東南アジア 裏の歩き方」など彩図社の裏の歩き方シリーズ関連、Amazon Kindleの電子書籍など。
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