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第3回「あなたは日本に帰国するべきです」~20年前のバンコク・プライベート・ダイアリー~
投稿日 2018.08.10
二度目のカオサン沈没に陥った?筆者。
その身辺、心境はにわかに穏やかではなくなってきたようです。
バンコクの魔力、タイの現実が筆者にじわりじわりと迫って来ています!
【日記/(匿名)】
【構成、注釈、写真/志賀健(GIA捜査官)】
【7月14日(火)】俺は場末のバックパッカー!?
東南アジアの雨季ってのは、毎日激しいスコールがやって来るものと思っていたが、必ずしもそうではなさそうだ。
一日おき、二日おきのスコールもあれば、梅雨の様にしとしと雨が降り続ける日もある。
東南アジア事情に詳しい、「CH2」仲間でもっとも仲の良いS君によると、これも地球温暖化現象が原因らしい。昼下がり、学生風の男の子がロビーへ入って来てキョロキョロし始めた。
やがて俺とS君がダベッテいるテーブルに近づいて来た学生君は意外な言葉を吐いた。
「〇〇さんですか?」
逃避行してるわけじゃないから素直に頷くと、学生君は大袈裟に喜びやがった。
「あ~居てくれて良かったあ~」
自己紹介もしないまま、学生君は一通のエアグラムを差し出してきた。
仔細を聞けば、5日ほど前にマレーシアのマラッカ海峡で一緒になった日本人女性から俺宛てのエアグラムを預かってきたという。
確かに宛名は俺の苗字だったが、本人の署名に覚えがない。その場でエアグラムを開封すると、青いボールペンで書かれた文字はなかなか達筆だが、文面は他愛もないノリだった。
「みんなで一緒にご飯食べて色々お話して今マラッカ海峡で綺麗な夕陽を見ていて来月マレー鉄道に乗ってタイに戻るのでまた会いましょう~」とかなんとか。
でも〆の挨拶が強烈だった。
「バンコクまで若い燕を飛ばします。場末のバックパッカーさん、またお会いするまでお元気で」久しぶりのバックパックの旅、まだ二ヶ月程度しか経っていないのに「場末」って、俺は早くも老成しちゃったのか。
それに「若い燕」って、この人は中年女性なのか?みんなで一緒に飯を食っただと??「この人全然思い出せないけど、どんな人?」
「白い帽子被って、白いシャツ着て、白いスカートを履いてました。20歳代後半ぐらいです」
「誰だろう・・・」
「あのお、その手紙、確かにお渡ししましたよ。俺、別の宿に泊まってますんで、もう帰ってもいいですか」御礼にロビーで販売されているビールを1缶買って差し出すと、学生君は一礼して受け取ってから自分の塒に帰って行った。
白い帽子、白いシャツ、白い服って、カモメの水兵さんじゃあるまいし、いや、全身白ずくめって幽霊じゃねーだろうな!?
待てよ、若い男の子に言いつけをきちんと守らせるぐらいだからいい女なのかもしれない、とかクダラネー想像を巡らせていたら、S君が脇腹を突っついた。「ったくもう!(差出人は)Aさんじゃないですか?和歌山の実家が農業やってるとか言ってた」
「そんな女性、いたっけ?」
「もっとマジメに女性の話を聞いてあげた方がいいんじゃないですか(笑)」
S君の指摘に、カオサン沈没病を患って人様への基本的な礼儀を逸してはいまいかと不安にかられた。
しかし、記憶にない女性から手紙を頂くって何とも得体の知れない気分だな。
お婆ちゃんとダンスしたり、妹とキッスするようなもんだ!?
【注釈】
地球温暖化現象が一般的に話題になり始めたのは1980年代後半でしたでしょうか。
1985年にオーストリアのフィラハで開催された地球温暖化に関する初めての世界会議(フィラハ会議)をきっかけに、地球温暖化の問題が大きくとりあげられるようになりました。
【注釈】
マラッカ海峡とは、マレーシア南端とシンガポール島を隔てる海峡であり、古くから夕陽が美しい場所で有名です。
SNSの交換等でメッセージを瞬時に送受信できる現代とは違い、当時はようやくE-mailが普及した段階だったので、手紙が重要なメッセージ・ツールでした。
エアグラムとは、もっとも切手代が安くて軽量な、折り畳み式の便箋兼封筒の形をした簡易航空書簡です。
【7月17日(金)】喜べない優越感
バンコクで就職活動中のS君に誘われて、夕方からアソークというビジネス街にある「人材登録派遣センター」へ行く。
昨日は履歴書を手書き、職務経歴書をノートPCで作成。
職務経歴書はカオサンのネットカフェでプリントした。
運が良ければ、日本語情報誌の外注アルバイトの口でも見つかって今後の旅の資金を上乗せ出来るかもしれない、そんな軽い気持ちでS君の誘いに乗ったわけだ。派遣センターには、私服姿の若い日本人たちが大勢来ていた。
専門スタッフとの面接があるというので、白いYシャツに黒のスラックスでやって来たマジメな?自分の姿が完全に浮いている。
履歴書と職務経歴書を提出すると、程なくしてハプニングが起こった。
「シャチョウガ ヨンデマス。コッチへ ドウゾ」
タイ人女性スタッフに促されて小さな会議室へ通された。
「いきなり社長面接って、こりゃひょっとすると!」と期待に胸が高鳴ったが、社長さんのお言葉は完全に想定外だった。「履歴書と職務経歴書を拝見致しました。大変残念ですが、あなたのスキルはタイでは役に立ちません」
「コンピュータを使った編集業務は、タイではまだ導入されていないんです。折角のスキルですが、職探しをされるなら帰国された方が得策です」生まれて初めて「あなたのレベルは高い」って評価されたのに、何たる皮肉な現実。
待合室に戻るとS君がソッコーで問いかけてきたので、面接の仔細を話すと「スゴイじゃないですか」と喜んでくれたが、別に俺はスゴクなんかない。
「あなたは“大き過ぎる”からダメよ」って女性に拒否された時って、こんな気分になるに違いない!?
【注釈】
日本では90年代半ばから、編集ソフトとデジカメがあれば、写真入り紙面作り(DTP作業)が可能になりましたが、当時のタイの紙面作りはまだアナログ作業でした。
文字入力したワープロからプリントした紙面と紙焼きの写真をカッターナイフでカットして、大きな版下台紙にスプレー糊とピンセットを使って貼り込んでいく手作業(版下作業)だったのです。
現代のDTP作業よりも、3倍以上の時間と労力を要したものです。
なおDTP以前に、当時のタイではデジカメやマッキントッシュは、パンティップ・プラザ等の大きなPCセンターでは少量販売されていましたが、一般的にはほとんど流通していませんでした。
特にマッキントッシュはタイ国内にサポートセンターも僅かで、修理が必要な場合はシンガポールの工場まで郵送しなければならない時代でした。
【注釈】
在タイ30年の日本人会社経営者に伺ったことがありますが、私服姿で面接にやって来る若者は今では滅多になく、その点では現代の若者の方が礼儀をわきまえていらっしゃるそうです。
ただし、お笑いエピソードも多々あるそうで、若者同士がニックネームで呼び合うことの多い昨今、面接で名乗る時にソレが出ちゃう人や、プリクラ紛いの顔写真を履歴書に張り付けてくる方もいるとか(笑)
また、同行したタイ人の彼女、彼氏を待合室の中まで入れてしまう方もいるそうです。
【7月20日(月)】こちらカオサン通り横トラブル相談所!?
「CH2」には老若男女様々な日本人が宿泊している。
彼らとの交流の楽しさに完全に旅の脚が止まってしまった。
「タイで一体何をやっているんだ」と自問自答する時もあるが、元来俺は自分に都合の良い言い訳がすぐに思い付く質のようだ。
「俺は今、何もしないということをしているのだ!」しかし楽しいことばかりではない。
男性宿泊者とタイ人女性とのトラブルの相談役、クッション役を仰せつかる事が多くなってしまった。
いい加減な英会話力でも役に立つもんであり、以前3年ほど探偵事務所で受付と書類作成のアルバイトをやっていた経験も、案外活きているのかもしれない。昨日は最悪、ダブルでトラブル相談を喰らった。
昼間は、俺と同年齢の男性宿泊者から結婚詐欺まがいの被害を受けたと、「CH2」まで押しかけて来たタイ人女性のお相手をすることに。
男性本人は俺に「お願いします」と言い残して部屋へ逃げ込んでしまった。
「サーミット・タワーで知り合った当時は優しくていい人で、お金も貸してあげて~今はヒドイです!」
泣きっぱなしの彼女を慰めるばかりだったが、妊娠をちらつかせる言い分は本当なのか?
【注釈】
「サーミット・タワー」とは、スクンビット・ソイ21(アソーク)にある、日本企業が入っているビル。
10階には日本の書籍や新聞を揃えた図書館があり、日本語を勉強する真面目なタイ人の学生さんも出入りしています。
ここにシロウトのタイ人女性をナンパしに行く“不粋な”日本人旅行者が、当時は確かに存在しました。
【注釈】
筆者はタイ人女性が「CH2」から立ち去った後にお相手の日本人男性に問い正したところ、大して悪びれもしていなかったとか。
この男性は彼女と知り合って親しくなった後、彼女のアパートで短期間同棲、やがて妊娠を告げられて同棲以前の常宿だった「CH2」に逃げ込んだとのことです。
しかし性交渉はあったものの、防備を怠った覚えはなく、「妊娠は嘘だ」と言い張ったらしいので真偽は不明。
なお当時の筆者の勘によると、この男性は必ずしもシロウト女性が好きというわけではなく、金銭的に逼迫していて、お金目当てで日本びいきのシロウト女性を狙ってみたのではないか、とのことでした。
彼女との同棲も、この男性にとっては宿泊費の節約程度にしか考えていなかったのでしょう。
30歳代半ばの背の高い色白のイケメンであり、いかにもタイ人女性にモテそうなタイプだったそうです。
深夜は初老のオジサンとゴーゴーバーのオネエサンとの金のトラブルだ。
ロビーで一人ビールを飲みながら黄昏ていると、オジサンとオネエサンが突然「CH2」に飛び込んできた。
オネエサンは、ナナプラザのゴーゴーバー「レインボー1」の踊り子らしい。
「お~〇〇君、居た居た。頼むよ、助けてくれ!」
深夜の静寂を切り裂く様な大声でオジサンは捲し立てた。
1日10,000バーツの契約で2泊3日のパタヤ小旅行に行ってきたらしいが、
オネエサンは3日分30,000バーツを要求するも、3日目はオネエサンに指一本触れることなく、飯を食わせて買い物までしてやったからオジサンは2日分20,000バーツで十分だと言い張る。
納得しないオネエサンは、30,000バーツもらうまでは帰らない!とここまで付いてきたというのだ。結局はオネエサンの言い分にオジサンは渋々従った。
もし3日目にオジサンに付き合わなかったら、オネエサンは店で踊って客が付いたかもしれないので3日分をもらうべきだ、今日ヤッタヤッテナイは問題ではないって事だ。大量の紙幣で膨れ上がったぶ厚い財布から追加の10,000バーツを抜き取ってテーブルに放り投げたオジサンは、憮然として自分の部屋へ帰ってしまった。
お陰で俺はオネエサンと一緒に深夜の大通りまで出て、雨の中でオネエサンの帰宅用タクシーを捕まえなきゃならん羽目にまでなった。「あの人(オジサン)、キーニャオ。私、キーニャオ嫌いよ」
「キーニャオって何だい?」
「お金をちゃんと払おうとしない人のことよ」
「(ケチってことか)・・・彼はキーニャオじゃないよ。タイのことをまだ分かってないだけじゃないか?」
「アナタ~(ここだけ日本語)、これから一緒にどう?ロング5,000バーツでエブリシングOK!」
「俺はもう眠いし、それに5,000バーツは高過ぎるよ」パタヤ帰りや“執念の集金”の疲れなんざ微塵も見せず、飽くなき商魂を発揮してくるオネエサンが殊更逞しく思えた。
しかしまあ、挨拶用語と「マイペンライ」の次に覚えたタイ語が「キーニャオ(ケチ)」とはなあ~。
昼間は生娘さん、夜は娼婦さん、タイ人女性の実像が伺い知れたが、「にっぽん男児よ、もっと雄々しく振舞ってくれ!」って気分だな。つづく
【注釈】
当時のゴーゴーバーの相場は、連れ出し料400バーツ、ショート1,500バーツ、ロング2,500バーツ、丸一日のお付き合いは交渉次第。
最近のゴーゴー嬢はドライになり、ショートの客を1日何人もゲットする為にロングを嫌うようですが、当時はロングは大歓迎でした。
ただし当時も売れっ子嬢は“貸し切り”を熱望してフッカケテきたものです。
ちなみに、ゴーゴー嬢を複数日借り切る場合は、「1日単価」だけではなく「総額」まで確認しておきましょう!
【プロフィール】
志賀健(シガケン)
1972年神奈川県生まれ。
元高校球児でプロ志望も断念。
ロックンローラに転身するもまたも挫折してアセアン放浪の旅へ。
以後フリーライターで食い繋ぎ、現在アセアン沈没中の生粋の不届き者。
ミレニアム前後から、日本の音楽サイト、アセアンの日本語情報紙等へ投稿経歴あり。
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