第12回「外はジーダイアリー・ハリケーン、中は泡姫の薄情け!?」~20年前のバンコク・プライベート・ダイアリー

投稿日 2019.04.12

筆者の勤める情報紙編集部の編集長はジーダイアリーの影響をまもともに受けてしまい、特ダネ探しに没頭し過ぎてついに社内で大問題になったようです。
一方筆者自身は慣れないバンコク生活に激しいストレスを抱えて体調不良に陥ってしまいます。弱り目に祟り目なのか、入社僅か三ヶ月目で大変な決断を迫られる事件が起こります!

【日記/(匿名)】
【構成、注釈、写真/志賀健(GIA捜査官)】

【3月23日(火)】砂糖入りマヨネーズに悲涙

バンコクで仕事を始めて約三ヶ月、最近は身体にまったく力が入らないおかしな体調に陥っている。
就業時間中は半分寝ている様な、逆に就寝中は半分起きている様な、一日中心身が浮揚している様な状態だ。
サウナに入っているような連日35度前後の猛暑にエネルギーを吸い取られているのだろうか。
事務所内の効き過ぎる冷房に心身機能停止のままでフリーズさせられているのか、最近はデスクワークも全くはかどらなくなってきた。
食欲は減退しっぱなしだが、食わないと身体がもたないんでタイ料理にトライし続けているものの、甘いか辛いか酸っぱいかの屋台飯は、食材というよりも強烈な味の調味料を食らっている感じでうんざりだ。
こんな状態の時は、最初はかわいらしく聞こえていたタイ語も気に障ってしょうがない。

クリーニング屋から戻ってきたスーツは、アイロンの跡でテッカテカにされていて唖然。
アパートに戻っても、旧式の冷房は稼働音が煩いし温度調整も不可。
ちょっとでも食後の掃除を怠ると出来上がる蟻の行列。
先日はシャワー室で容器が倒れて中身がこぼれていたタイ製シャンプーにも蟻が群がっていやがった。
不慣れや不自由が色々と続くと欲望も薄れてくるのか、一ヶ月ほど前から夜遊びをする気もすっかりなくなってしまった。
まさか、こんな流れで俺の夜遊び病が失せていくとは予想もしなかったな。

九ヶ月前に日本を出国する際に全て治したはずの虫歯も痛み出し、今日は初めてタイの歯医者に行く羽目になった。
通訳さんが気を利かせて外国人が利用する歯医者を紹介してくれたが、5,000バーツも請求されてさすがに腹が立った。
保険が無いので実費精算は分かっていたが、通訳さんの推定料金の約4倍だ。
「そんな大金は持ってないよ!」と声を荒げると、受付の女性は何食わぬ顔で「お金がある時に持ってきて下さい」と。
結局1バーツも払わずに歯医者から出てきたが、身分証明書の提示を求められることもなく、デタラメの住所と電話番号を書き残してきただけ。
一体どうなっているんだこの国は。
“やらせ逃げ”出来たというのに腹が立つ!

虫歯の痛みが消えた後、何故か生野菜のドカ食いがしたくなり、エンポリアムという高級デパートの食品売り場でサラダ用野菜とマヨネーズ(らしき物)を買い込んだが、ひと口食べてみたら息が止まりそうになった。
「なんでマヨネーズに砂糖が入っているんだ!!」
日本の生活ではありえない場面での突然の甘味に口がひん曲がりそうになった。
砂糖入りマヨネーズをかけてしまった分の生野菜を大量のシンハービールで無理矢理胃に流し込んだものの、やがて不覚にも涙が出て来た。
「もう嫌だ、こんな生活・・・」
自分でもびっくりするぐらい涙が“熱かった”。
初めての海外就労、弱音を吐くのはまだ早過ぎるが、なまじスンナリと仕事が見つかったこともあって、東南アジア、タイという地域を甘く見過ぎていたツケを払わされているのかもしれない。

【注釈】
虫歯治療の実費精算で5,000バーツ(約15,000円)はボラレ過ぎですね。これは真偽は不明ですが、2002年頃に私は歯医者で事務のアルバイトをしている日本人女性と知り合って「外国人の患者さんを相手に開業しているタイ人の歯医者さんは、概して日本の歯医者さんよりもレベルが高い」と聞いたことはあります。
【注釈】
「砂糖入りマヨネーズ」の衝撃、分かる気がしますね(笑)私も“普通”の緑茶と思い込んで買ったペットボトル入り緑茶を一気に飲み込もうとした時がそうでした!砂糖の甘味に驚いたあまり飲み込み損ねてしまって、周囲に吐き散らしてしまったものです。またバターを買ったらまったく塩味がしなかった時も驚きました。マヨネーズは「砂糖入り、無し」、バターは「塩入り、無し」のパッケージ表示のチェックが今でも必要です。ペットボトル入りお茶の「砂糖入り、無し」がキャップの色(白が砂糖無し)で判別できるようになったのは2002年ぐらいからでした。

【3月26日(金)】編集長の飽くなき暴走/早過ぎる昇格

「ジーダイアリー」創刊第2号が発行され、またまたあらぬ刺激を受けた我が編集長の暴走は加速するばかりであり、特ダネを求めて外出しっぱなし。
最近はほとんど事務所に顔を出さなくなった。
極端に言えば、原稿締切日と最終版下校正(チェック)日、納品日しか事務所にいないのだ。
営業担当の方と一緒にシーラチャーやパタヤまで行っている時もあれば、一人でどこかの地方に行っている時もあるようだ。
つい先日も突然俺に電話をかけてきて、「只今ラヨーンの海で釣り船に乗っているんだ。はい、波の音!」と言って受話器越しに舟が揺れる波間の音を聞かせたりする。
編集長が書いた原稿を読めば、間違いなく取材をしているのは分かる。
しかしひょいと事務所に顔を出したかと思いきや、俺を含めた2人の日本人部下と2人の外注ライターさんの原稿にテキトーな悪評を並べてはまたいずこへと消えてしまう。
日本人女性スタッフの原稿には「もっと女らしく書けないのか!」、外注ライターさんの原稿には「つまらん。誰か別のヤツを探しておいてくれ」、俺の原稿には「読者に遠慮するな。もっと自由に書け」、いつもこんな感じだ。
経費も湯水のように使っているらしく、社長も編集長の暴走に呆れ果てている。

遅めの昼休憩を終えて事務所に戻ると、社長室に呼ばれた。
社長、専務、営業担当のお三方が揃って俺をお迎えだ。
着席すると社長がいきなり口を割った。
「来月から、君に編集長をやってもらうことになった。給料もアップするから引き受けてくれるね?」

青天の霹靂(へきれき)とはまさにこの事だ。
返答に窮している俺に社長は更に続けた。
「まったく事務所に来ない、まったく部下の面倒を見ない、経費も使い過ぎ、編集会議もしない。彼(編集長)をこのまま野放しにしておくわけにはいかないんだよ」
営業担当者も続けた。
「編集長はまったく数字を見ていないでしょ。収支を計算していないでしょ。それじゃダメなんだよね」
専務も口を挟んだ。
「もうMさん(日本人女性スタッフ)にも電話で伝えたよ。彼女もOKしたよ。これから君が編集部のデスクを守りなさい」

頭の中を駆け巡ったのは編集長に対する義理だ。
俺はこのバンコクで幸運にも編集長と巡り合って拾って頂いたことで、毎日飯が食えるようになったのだ。
この時期に編集長と俺の立場が逆転してしまったら、俺は恩を仇で返すことになってしまう。
また極端な指示、曖昧な指摘が続いているとはいえ、俺は結構「一理あるな」と心の何処かで編集長に感心しているし、大船に乗った気持ちで仕事をさせて頂いていると感謝もしている。
何よりも、ようやくスクンビット、シーロム、サイアムなどの繁華街の実態が分かってきた程度の者に情報紙の編集長など務まるはずがないじゃないか。
それに専務の“デスクを守れ”という指示も、「取材なんかしなくていい」と言われているようで気に入らない。
慎重に言葉を選びながらお三方に俺の本音を伝えたが、社長にひと言で片づけられてしまった。
「何も心配しなくていいよ。会社が君をバックアップするから!」

今日のところは編集長交代の返事は保留させて頂き、編集長が戻り次第、社長と編集長で直接話し合ってから決めて頂くことをお願いした。
編集室に戻ると、無人の編集長デスクには先日納品になったばかりの我々の情報紙の最新号や他の情報紙の上に「ジーダイアリー」が無造作に置かれてあった。
たくさん貼られている付箋、それは編集長が「ジーダイアリー」から受けた激しい影響力の証だ。
「コイツの出現で俺たちの編集部に平穏な日々が無くなってしまったんだ」
そう思うと、この「ジーダイアリー」という存在がとてつもなく恐ろしくなってきた。
「負けてなるものか!」と「ジーダイアリー」に立ち向かっていこうとする編集長は、滅茶苦茶なやり方とはいえ、人間として編集者として逞しいと思う。
その編集長の代わりが、慣れないバンコク生活に体調不良でフラフラしている様な俺に出来るのだろうか・・・。
それにしても会社の編集長交代方針、俺は何か妙な胸騒ぎを隠すことが出来ないのだが。

【注釈】
ご参考までに、筆者の「妙な胸騒ぎ」という悪い予感はこの後の日記を読み進めていくと的中したことが分かります。
編集長さんと筆者との立場を逆転させる事は、社内のある者の策略でもあったようです。詳しくは次回以降に!

【3月29日(月)】私はメム、ココはノム(おっぱい)

今日も事務所は編集長不在。
夜7時より、Mさん(日本人女性スタッフ)と打ち合わせ。
Mさんは夕方に取材先から電話をしてきて、取材先に近いナナ・プラザ内のビアバーで待ち合わせ、打ち合わせを希望してきた。
Mさんの持ち込んだ議題は「編集長交代要請を受けて下さい」であり、ゴーゴーバー指定の理由は「あなた(俺)が好きな場所だから」(笑)
真面目な人柄のMさんのユーモアと、フェロモンが蔓延するエリアで重大な結論を迫られるファニーなシチュエーションに気が緩みそうになったが、編集長不在期間中の決断は踏みとどまった。
ふと右側に首を捩じると、「ブードゥー」という店のペットマークである髑髏のイラストが笑っている様に見えた。
「人間なんて所詮誰もがしゃれこうべ(髑髏)。編集長だろうがオマエさんだろうが同じ人間さ。気楽に行きな」
「ウマ過ぎる話(早過ぎる昇格)には、必ず裏があるもんだ。用心した方がいいんじゃないのかい?」
髑髏の笑みはどっちを象徴しているんだ?

Mさんと別れた後、MP「バンコク・コージー」へ。
ご無沙汰している夜遊びだが、「編集長交代要請」という面倒臭くて、何故か嫌な予感のする事態をひととき忘れたくなったのだ。
久しぶりに身体を伸ばして湯舟に浸かって女人の肌に触れれば、きっと気分転換にもなるだろう。
夜遊び、女遊びってのは、本来はこうあるべきなのだ!

“金魚鉢”の広い「バンコク・コージー」のフロアに不思議な安らぎを感じた。
嵐の日でも穏やかである海の中にいるみたいだ。
男の欲望よりも安らぎが先行してしまったので、泡姫を選ぶのが面倒になってきた。
女性のフロア案内係に「若くなくてもいいから、優しい女がいい」とリクエストすると、30歳前後に見える色白女性を勧められた。
濃い紫のドレスが白い肌によく似合い、うつむき加減で穏やかそうな佇まいが気に入って彼女に決めた。

【注釈】
ナナプラザ内の「ブードゥー」は2005年ぐらいまで存在した、1階左奥にあったゴーゴーバー。1980年代のアメリカン・ロック「L.A.メタル」のシンボルであるデザイン化された骸骨マークに似たペットマークを使用していました。

久しぶりの泡姫は、今まで相手をしてくれた風俗嬢とはまったく異質の接客をしてきた。
彼女は英語も日本語もまったく出来なかったが、俺の方もタイ語がまだよく分からない事を伝えると、どういうわけか彼女は自分のハンドバッグの中身を全てベッドの上に並べ始めた。
財布、小さな香水の瓶、口紅、ハンドミラー、ゴムのヘア止め、メモ帳とペン、ハンカチ、ポケットティッシュ、それから伝票の様な小さな紙束。
「タイ語が分からないからごめんね」という俺の下手くそな発音のタイ語は、「所持品を見せてくれ」にでも聞こえたのか!?

彼女は所持品ひとつひとつを手に取りながら「これはタイ語で〇〇〇って言います。それからこれは~」といった具合で即席タイ語講習を始めた。
「そんな事されてもいきなり覚えらんないよ」と思いつつも、何か反応してあげないと申し訳ないので、彼女の発声の後に同じ発声を繰り返すことにした。
やがて彼女はメモ帳を1枚破ってペンと一緒に俺に渡し、「書いて」とポーズで促してきた。
「へえ~気が利くじゃないか」と感心しながら俺は「クラパオサタン(財布)」とか「ナムホン(香水)」とか紙っ切れに書き続けた。
ガキんちょの頃、左利きを右利きに矯正される際に右手で平仮名を書く練習をお袋から毎晩強いられた遠い記憶が蘇ってきて吹き出しそうになった!
あの時はお袋が鬼ババアみたいに思えたが(笑)、彼女のタイ語講座は場の雰囲気をどんどん和やかにしてくれ、お互いの距離を一気に縮めてくれた気がした。

“やる事をやって”からお互いに身支度を整え終わると、彼女は自分を指差して「メム」と名乗り、更に自分の胸元を指差して「ここは“ノム”(おっぱい)」と続けてニッコリ笑い、今宵の初級タイ語講習は終了!

旅作家で名高い開高健だったか、取材で見知らぬ海外へ行った際の心構えを次のようにしたためていたはずだ。
「①現地の市場に行け ②現地の飯を食え ③現地の女と一晩一緒に過ごせ」
要するに名も無き庶民と触れ合い、そこで芽生えた小さな人間関係から良いネタ、情報を掴めってことだ。
今宵の泡姫が、何故だか③に該当する有難い女性に思えたもんだ。
夜遊び、女遊びでは、いつも自分の欲望の処理しか考えていなかった俺も、初めてお相手にささやかな感謝の念が生まれた良い夜だった。

【注釈】
MP「バンコク・コージー」はペッブリー通りにあった、今は無き日本人ご用達の“名店”。「ジーダイアリー」の第2号(1999年3月15日発行)では、オーナーのインタビュー記事が掲載されているほど日本人客に大人気でしたが、確か2007年に閉店しています。
泡姫メムさんの初級タイ語講座は、口の悪い夜遊びのプロに言わせれば「時間稼ぎ」「見え透いた似非好意」なのかもしれません。しかし当時の泡姫は現在の泡姫よりもお得意さんをつかむために一生懸命であり、タイ語講座は彼女なりの筆者への純粋な親切心だったのでしょう。
また彼女の所持品の中の「伝票の様な紙束」とは、恐らくお客が付く毎に店側から発行される伝票(仕事時間、金額、女性の取り分、部屋番号などが記載)と思われます。もし筆者がもう少しタイ生活に慣れていたならば、好奇心がはたらいてその伝票からお店のシステム、彼女の稼ぎ等を知ることができたでしょう。「ジーダイアリー」側としては、それをやってほしかったですね(笑)

【志賀健(シガケン)プロフィール】
1972年神奈川県生まれ。
元高校球児の左腕投手で、プロ入りを志望するも断念。
その後ロックンローラーに転身するも、またも挫折してアセアン放浪の旅へ。
以後フリーライターで食い繋ぎ、現在アセアン沈没中の生粋の不届き者。
ミレニアム前後から、日本の音楽サイト、アセアンの日本語情報紙等へ投稿経歴あり。

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