第13回「加速するタイ人化/レックス・ホテルのおかめ姫」~20年前のバンコク・プライベート・ダイアリー

投稿日 2019.05.23

毎日変わらぬ猛暑の気候に体調を崩し始め、そこに思わぬ「編集長昇格要請」の重責がのしかかってきた筆者。本来少しは喜んでもよさそうなものの、筆者はどこか上の空。昇格よりも、体調不良、集中力低下にお悩みのご様子であり、それは噂に聞いていた「日本人のタイ人化」の始まりでは?と自己憐憫に。そんな日々にも、相変わらずバンコクの夜の蝶は舞い降りてきます。
【日記/(匿名)】
【構成、注釈、写真/志賀健(GIA捜査官)】

【4月8日(木)】日和見主義~虚しき傍観者

社長から「編集長交代要請」を受けてから早や二週間が経過した。
ほとんど事務所に顔を出していなかった編集長は“不穏な空気”でも察したのか、このところ一週間ばかり“出社”している。
社長と編集長との話し合いによって「編集長交代」に関する結論を依頼したはずだが、その話し合いは一向になされていないようだ。
俺としては結論を先延ばしにされてイラツクような、それでいてホットするような微妙な心持ちだ。
それにしても、編集長の部下に対するダイレクト過ぎる要求は相変わらずだ。
今日は俺やMさん(日本人女性スタッフ)だけに留まらず、タイ人通訳さんにも厳しい要求を出した。

取材時の通訳だけではなく、タイ語の新聞からおもしろそうなトピックスを翻訳して我々日本人スタッフに提出することがタイ人通訳さんの重要な任務なのだが、「いつも同じような記事ばかりじゃないか」「そんな記事は日本人は興味ないんだよ」「もっと他にないのか!」と編集長はあからさまに通訳さんの仕事を非難したのだ。
もう通訳さんは泣きそうだ。
ここで意を決したのが、日本人女性スタッフのMさんだった。
通訳さんがデスクを離れた時を見計らって、Mさんは堂々と編集長に忠告した。

Mさん:編集長、タイ人を皆んなの前で非難することは止めた方がよろしいのではないでしょうか。
編集長:俺はいい物を作りたいから言っているんだ。俺、間違った事を言っているか?言ってないだろう!
Mさん:私はタイ人を皆んなの前で非難しないで下さいと言っているんです。
編集長:そんな悠長な事を言っていると、ジーダイアリーに踏み潰されてしまうぞ。俺たち、飯が食えなくなるぞ。
Mさん:ジーダイアリーとわたしたちは関係ないです。
編集長:あ~もうっ!(ジーダイアリーの)第2号を見ただろう!ページ数も広告も増えて前進しているじゃないか。俺たち前進しているか?してないだろう、それが悔しいんだよ!
Mさん:それは編集長個人の感情であって、私たちは同じじゃないです。
編集長:同じじゃない?あーそう、じゃあジーダイアリーよりスゴイ記事を書いてみろよ。
Mさん:皆んなが皆んな、ジーダイアリーがスゴイって思っているわけじゃないです。

【注釈】
ジーダイアリー創刊第2号は、1999年3月15日発行。創刊号より16ページ増えて56ページ。第一特集は「スリランカ~セイロン畑の娘に惚れ、ゴルフ場マネージャーに激怒する」、第二特集は「激動のマカオでジャパニーズカジノ!?」、第三特集は「(タイの)競馬に行こう。56ページ中、18ページが1ページ丸々広告。
創刊から僅か2冊目の時点でこれだけ広告依頼が殺到することは、情報誌過剰供給時代の今では考えられないですね!いかに「ジーダイアリー」の登場が衝撃的だったかを物語るページ構成であり、広告自体も活き活きとしたレイアウトがなされていて、お店が躍動している印象を強く与えています!

タイ人通訳さんがデスクに戻ってきたので、編集長とMさんのバトルは中断した。
Mさんは身長150センチぐらいの華奢な女性だが、この時ほど俺は女性が逞しいと思ったことはなかったし、またこの時ほど俺は自分自身が情けないと思ったこともなかった。
彼女と編集長とのバトルを聞いているだけであり、俺は仲裁どころかどちらかの助太刀すら出来ないのだ。
「俺はいつから、こんな日和見主義な男に成り下がってしまったんだ」
と憂いてはみたものの、出てきた結論がまた情けない。
「いっそのこと、俺じゃなくてMさんが編集長をやればいいのだ」
まだバンコクのイロハも知らず、タイ語も満足に喋ることのできない俺なんかより、Mさんの方が編集長たる相応しい経歴、いや心意気ってもんがあるじゃないか!っていかにも正論っぽいが、要するに「俺に任せておけ。責任もって収拾してやるぜ!」って空威張りすらする気も起きないのだ。
全てが面倒くさくて、体の芯からパワーが出てこないのだ。
タイ人化してきたのか、ジーダイアリー・ショックの続きなのか、単なる体調不良なのか、自分自身の中枢機能がイカレテしまっているようだ。

【4月11日(日)】なあなあ主義~アナタハ、オトコラシクナイ!

今日は奇妙な再会があった。
夕刻、スクンビット・ソイ33/1にあるいきつけの日本料理店Nに行くと、「レインボー1」のウエイトレスのエーと再会した。
踊り子ではないが、小生意気なアイドル風のエーは日本人客に人気があり、ウエイトレスの割には結構連れ出されていた。
俺のオキニだったニンが辞めた後、エーは何度か俺を誘ってきたものだ。
エーは羽振りの良さそうな日本人中年男性一人と他のタイ人女性2人と一緒であり、俺を見つけるなり同席を促してきた。
やがて「この人たちと一緒だとツマンナイから、どっか連れてって」と耳打ちされ、エーは「ダイジョーブ、ダイジョーブ」と言いながら俺を強引に店外に連れ出した。

エーたちにご馳走していた日本人男性に申し訳なかったが、エーは何食わぬ顔で言い放った。
「マイペンライ!あの人は私たち3人と一緒に〇ックスしたいだけなんだから」って言い訳をする。
皆んな一緒じゃ嫌なのか?とからかい半分で聞くと、エーは日本語で即答した。
「ミンナイッショ、キモチワルイ!」

【注釈】
余談ながら、文中の「ミンナ、イッショ~」とはいわゆる3P、4Pプレイであり、当時は風俗嬢ですらそうした楽しみ方はマイナーでした。確かスクンビットのソイ1かソイ2に、「3POK」というフレコミの小さなシークレットクラブがあったと記憶していますが、実際に行った知人によると、「3Pっつったって、2人で〇っているのをもう1人が見てるだけで、要するに2人の女性と代わりばんこにするだけでオモシロクモなんともない」と語っておりました。文中のエーさんが「キモチワルイ」と言ったのも、当時なら頷けます(笑)

ビールが飲みたかった俺は、とりあえず近くのバービアへエーを連れて行った。
既に相当酔っている様なエーは俺にしなだれかかり、いたずらっ子のような目で俺を見上げながら俺がニンにご執心だった話題に執拗にこだわっている。
テキトーに受け流しながらエーの肉感と香水の香りを感じていい気分になっていると、エーは突然身を離してカラミ始めた。

エー:アナタはオトコらしくない!
俺 :どういうこと?
エー:まだニンの事、好きなんでしょう?
俺 :ニン?もう忘れてたよ。
エー:ウソ!ニンが好きだから他の女を連れ出さなかったじゃない。オトコラシクナイわ!(オトコらしくないという表現を、エーはYou are not a man という表現を使った)
俺 :え~よく分かんないな。
エー:ニンは結婚したのよ。結婚した女がまだ好きなんてバカじゃないの!

ここまで女に罵倒されたのは人生で初めてだ。
しかも、こんな小娘に!
案外エーは俺がお誘いを何度も断ったことを根に持っていたのかもしれない。
日本人女性相手だったら激怒したことだろうが、エーには怒りは感じなかった。
ただただ、このサヌックじゃない(楽しくない)状況が早く過ぎ去ってほしい、それだけだ。

タイで生活を始めてから腹が立つことは数知れず。
だけど目の前の怒るべき対象に対しては、感情の爆発に蓋をしてしまうことが多くなった。
タイというまだまだ未知の環境に対する、恐れなのか何なのかよく分からないが、自分が我慢さえすればこの場は収まるのだという捻じれた「自己犠牲よかろう論」がまたしても出てきたって感じだ。

ハイネケンをあおるだけで料理にはほとんど口をつけないエーは、言いたい事だけを言ってから一人で勝手に店を出ていった。
お勘定を気にするそぶりすら見せないその態度に「やっぱり俺はタイにいるんだな~」と溜息をつくばかりだ。
“男らしくない”というよりも、やっぱり俺はそろそろタイ人化してきたんだろう。

【4月19日(月)】夜遊びだけは積極主義~レックス・ホテルのおかめ姫

ソンクラーン明けの初日。
夜8時から営業担当のK氏と共に、トンローにある新規広告の契約を下さった2軒の店舗にご挨拶に行く。
正式な契約は既にソンクラーン前にK氏の手によって終了しており、「新しい編集長を連れてくると約束してあるから一緒に行こう」と誘われたのだ。
トンローへの道中、K氏に「僕はまだ編集長じゃないですよ」とくぎを刺すと、「何言ってんだよ。社長も専務もMさんも大賛成なんだから早く編集長昇格を受理した方がいいよ」と催促された。

このKという男、編集長によると香港の高級ホテルでマネージャークラスのお偉いさんだったらしい。
そんな事はウソかホントか分からんが、英語もタイ語もペラペラなK氏は少なくとも恐ろしいほど仕事が出来る。
俺とほぼ同時に入社したらしいが、既にK氏が新規契約した広告数は20近くにも達し、お陰で俺は広告のデータ作りにてんてこ舞いなのだ。
編集長が暴走しまくっているのは、「ジーダイアリー・ショック」のみならず、K氏の異常な仕事ぶりによって突然編集部の収入が増えたことも要因だ。
広告収入が命のフリーペーパーにとって、彼ほど頼りになる営業マンはいないのかもしれないし、鈴木ヒロミツ似のどこかコミカルな風貌と軽妙なトークのK氏は広告主にも好かれているに違ない。
だが彼がふと見せる特異な表情はゾッとするほど恐ろしく、暗闇の奥で一人でじっと何かに耐えている様なのだ。

新規広告主へのご挨拶が終わった後、K氏と一緒に別の広告主である飲食店で夕食を兼ねて一杯やった後、K氏は更に営業周りをすると言ってトンローの奥へと去って行った。
なんたるエネルギーとバイタリティ!
時刻は既に11時近く、こんな時間から何処に営業に行くというのだろう。

久しぶりに夜風が気持ちよく感じられたので、アパートまで徒歩で帰ることにした。
その途中、スクンビット通りを歩いていると、古ぼけたホテルが目についた。
大きな看板には「REX HOTEL」という表示。
スクンビット通り沿いから1階のカフェが見え、周囲の暗闇の中でカフェ全体が淡いオレンジ色の光を放ちながら静かに佇んでいる様な、なんとも鄙びた情緒を醸し出している。
カフェの中には、若いタイ人女性と白人男性とのカップルが何組か見える。
いつか編集長に聞いたことのある、タイ人のフリーランスの娼婦とそれ目当ての男性客が集まるカフェであることを思い出した。
「テーメー」や「サイアムホテル」ほど盛況ではなく、細々と「男と女の出会いの場」として成立しているらしい。
「俺のアパートから徒歩で来れる所じゃないか」と思うと急に興味が湧いて、半分も埋まっていないカフェに入ってみた。

【注釈】
「レックス・ホテル」はつい2~3年前に閉館した、BTSトンロー駅とプロンポン駅の中間あたり(ソイ49の真向かい)にあった老舗のホテル。1階には「REXA COFFEE」というコーヒーショップがあり、スクンビット通りから店内が丸見えの構造でした。1999年当時は確か一泊1,100バーツぐらいで、“連れ込み専用”ホテルよりは高値だったので、お楽しみに利用するお客は少なかったと思いますが、不思議と清潔感と解放感のある「REXA COFFEE」は24時間営業ということもあって、時間を持て余した男性がちらほらおり、彼ら目当てのフリーランスの女性たちが少なからずやって来ていました。「REXA COFFEE」側もその状況を黙認していたようです。

客待ちしている女も、女を探している男も見当たらないが、既に交渉段階に入っているカップルしかいない状況が却って心地いい。
ちょっと驚いたのは、オーダーしたシンハービールが大瓶で運ばれてきたこと、更にグラスにカフェのロゴがプリントされていることだった。
案外昔は流行っていたホテル、カフェだったのかもしれないと思うと、ますます興味が湧いてきた。
「客引きの女性が現れるまで待ってみるか」
アルコール度数の高いシンハービールの大瓶を半分くらい飲んだら酔いが回ってきてしまったが、その後に思わぬ展開が待っていた。

不意に誰かに後ろから右肩を叩かれたので振り返ろうとすると、右の頬に細い棒の様な何かが軽くささった。
驚いて振り返り直すと女だった。
頬にささったのは女の人差し指だった。
こんな茶目っ気をやるなんて知り合いかとも思ったが、女の顔に見覚えはない。
女は30過ぎに見える色白のオバサンだったが、満面笑みのお顔はおかめ納豆のおかめさんみたいでこっちまで笑い出したくなるようなハッピーフェイス。
「ハッパでもやってんのか?」と一応警戒したが、女は素晴らしく流暢な日本語であっさりと俺の予防線を突破しやがった。

「お客さんと一緒にレックスホテルの部屋に入ったけど、お客さんは酔っ払い。何もしないでいびきをかいて寝ちゃった」
「お金もらってないし、朝まで起きそうもないし、待っていてもいびきがうるさいし、部屋から出てきちゃった。私、可哀そう!」と。

何でそんなに笑っているのかと聞くと、「今日は月曜日だから女は来ないよ。あなた可哀そう。わたし可哀そう。一緒だね」と、辻褄の合わない理屈をスラスラと!
やがて女は緩みっぱなしの口元をちょっととんがらせて
「おにいさん、(私と)するか?」
と聞いた。
その言い方、フレーズに吹き出してしまい、値段を確認することなくソッコーでOKしてしまった!
女はそよ風のような優しいスピードで俺の手を取って立ち上がり、ホテルのフロントへ歩を進めた。
「何があっても、何を言われても、こうして慰めてくれる女が忽然と現れてくれる。バンコクっていいな!」
日本人がタイ人化していくパターンにハマッタ気がしたが、こればっかりは止められないな!

【注釈】
当時は“フリーランサー”相手に値段を確認しなくても、ウマが合いさえすれば“よろしくやった”後にフッカケラレルことは少なかった印象が強いですね。でもそれは、昔の方が大らかで良かったのではなく、ただ単に私自身が今よりも遥かに若くて女性から好感を持ってもらえたからではないか、最近はかように思います(笑)

【志賀健(シガケン)プロフィール】
1972年神奈川県生まれ。
元高校球児の左腕投手で、プロ入りを志望するも断念。
その後ロックンローラーに転身するも、またも挫折してアセアン放浪の旅へ。
以後フリーライターで食い繋ぎ、現在アセアン沈没中の生粋の不届き者。
ミレニアム前後から、日本の音楽サイト、アセアンの日本語情報紙等へ投稿経歴あり。

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