第10回「衝撃のジーダイアリー創刊」~20年前のバンコク・プライベートダイアリー

投稿日 2019.03.03

年が明けて1999年1月。
前年末にバンコクのフリーペーパーの編集部へ就職をして、初めての海外勤務をスタートさせた筆者。
まず年明け最初のイベントはビジネス・ビザ取得の為にカンボジアのプノンペンへの小旅行。
当時のカンボジアは長過ぎた内戦が終結して、ようやく平和な時代が訪れた頃でしたが国の実情はまだまだカオス。
そんなカンボジア、プノンペンに筆者は少なからずショックを受けたようですが、本当のショックはタイへ戻ってから待っていたようです!

【日記/(匿名)】
【構成、注釈、写真/志賀健(GIA捜査官)】

【1月9日(土)】就職おめでとう!来月の家賃払ってくれない?

バンコクで働き始めてから早一ヶ月。
アパート探しに引越し、日用品の買い揃え、仕事用スーツのオーダー、情報紙の広告主への挨拶回り等、割と慌しく過ぎた感じだ。
今のところ俺の仕事上の使命は、自前のノートPCで情報紙のデータを完全にデジタル化させること。
会社側からは、それが完了した暁に「新しいパソコンの購入」を約束されている。
まあ情報紙の製作関係者が“デスクワーク馬鹿”ってわけにもいかず、営業や取材の担当者に頼み込んで、夕方からは可能な限り彼らに同行するように努めている。

仕事が終われば相変わらずゴーゴーバーに立ち寄っているが、顔なじみのゴーゴー嬢たちの「バンコク就職」に対する反応がおもしろい。
みんな「へえ~バンコクが好きなのね!」ってまずは笑顔で祝福してくれるが、その後が違う。

「日本で働いていた時とサラリーはどっちが高いの?」
「何処のコンドミニアムに住んでるの?広いんでしょ?奥さんいないんでしょ?友達と一緒に泊まりに行っていい?」
「まだタイ語話せないんでしょ?あたしが教えてあげるから今からペイバー(連れ出し)してよ」
「おめでとう!じゃあテキーラで乾杯ね!!」
「タイの女性が好きなんでしょ~(このスケベ!って意味か)」
「これから(生活の)お世話してあげるから、とりあえず来月の家賃払ってくれない?」

まあ概して、結構なお給料を貰っているらしい駐在員さん方と同じ待遇を受けていると思っているようだ。
彼女たちにとっては、駐在員だろうが現地採用者だろうが旅行者だろうが、日本人は全員お金持ちって認識なんだろうな。

【注釈】
当時のゴーゴー嬢たちは、確かに駐在員さんと現地採用者さんとの給料の大きな違い等は知らなかったでしょう。
もっとも当時はまだ「タニヤ・カラオケ全盛時代」(の末期)だったので、ゴーゴーバーで“いかにも駐在員さん”といった風貌の方はあまり見かけなかった記憶があります。
今では遊び場の形態などは関係なく、駐在員さんたち、現地採用者さんたち、旅行者さんたちが入り混じって遊ばれているようですが、当時は形態によって“利用者の色分け”が割とはっきりと見えたものです。

【1月20日(水)】夜明けのない朝~カンボジア・プノンペン

独立記念公園近くの一等地に長く残っていた、スラム・アパート「ブディン」。まるで爆撃を受けた様な建物の全貌はカンボジア暗黒時代を象徴しているようでもありました。(撮影は2015年)

タイは新年の正月休みが元旦だけなので、おとそ気分に浸ることなく新年早々から仕事だ。
正月休みが無いなんて人生で初めてであり、何だかタイに来て損をした気分になったものだ。
カンボジアへの二泊三日のビザトリップは正月休みの代わりで、せいぜいのんびりしようと期待していたが、そうはならなかった。

プノンペンには親会社の支局があり、当地で働く社員のU氏が空港の出迎えからタイビザの申請手続き、ホテルの手配から夜の案内まで全ての面倒をみて下さり、また移動は全てU氏の運転する社用車だったので楽チンだった。
しかしプノンペンの実態には恐れ入った。
空港建物は掘っ立て小屋に毛が生えた程度、空港から外に出れば赤土の大地が広がり、市内までの道路は舗装されていなくて、あちこちで地雷でも爆発したように凸凹。
街の中はまだ内戦の傷跡が至る所に生々しく残っており、4~5階建てのコンクリート製の建物も廃墟なのか機能しているのかが分からないといった印象だ。
モニボン通りという目抜き通りと、独立記念公園周辺以外は舗装はされておらず、一歩大通りを入るとやはり車が直進できないほどの凸凹状態。
夕食に案内されたモニボン通り沿いの中華料理店周辺は電飾が綺麗だったが、其処以外は漆黒の闇。
星は見えているが、そのまたたきがあまりにも弱々しい。
夜空というものがこんなにも真っ黒だったとは今更ながら知った。

夕食後、暗闇の中に広がる空き地をトタン板で仕切り、裸電球をつるしただけの即席バーでU氏と飲んでいると、トタン板の向こう側で銃声が聞こえた。
生で聞く初めての銃声であり、強盗事件が発生したらしい。
即席バーの次に案内された小さなマッサージ屋(置屋)では、ベトナム人らしい若い女性が泣きながらマッサージをしてきた。
とてもじゃないが“やる気”がおきなかったので、20ドル渡してさっさと帰ろうとすると、舌を引きちぎられるんじゃないかってほどの“咥内攻撃”の御礼を食らった。
昼食の為にゲストハウス近くのカフェに行けば、床は先客たちの残したゴミやら食べかすでいっぱい。
店の従業員たちの後片付けは、テーブルの上に乗っている物を全て床に払い落とすだけなのだ。
プノンペン有数の市場セントラル・マーケット周辺にたむろするトゥクトゥクやバイクのドライバーたちは“雲助”にしか見えない。
市場内の肉屋で、デカイ包丁で肉をぶった切っているオバサンたちは、溜まったストレスを発散するために包丁を持っているようだ。

男どもは視線が歪んでいる。
女たちは“艶”がない。
子供たちには笑顔が少ない。

長過ぎた内戦とポルポト政権の恐怖政治が終わっただけで、まだまだ平和、平穏とは言いがたい実情なのだろう。
ここも住めば都なのかもしれないし、旅行者として訪れれば違った感慨もあるのだろうが、なんだか早くバンコクに戻りたくなった。
初めて訪れたプノンペン、その印象を一言で言えば、「殺伐」だろうか。

現在のFCCカフェ。既にインドシナ戦争時代の名残はほとんどなく、オシャレなカフェレストランとして新しい歴史を作っています。

唯一の有意義な体験は、カフェ「FCC(Foreign Correspondents Club of Cambodia)」。
第二次、第三次インドシナ戦争を取材した世界中の在カンボジア外国人ジャーナリスト達の特派員クラブをカフェ・レストランに改造した場所だ。
トンレサップ川に面したオープンエアなカフェレストランだが、命知らずのジャーナリストたちが残して行った夥しい枚数のボツ写真、取材メモで壁面や柱が埋め尽くされていたのは感動!
メモの中には
「お互い命があったらまたここで逢おう」
「賞も勲章もいらない。女房と子供に逢いたいから帰国するぜ」
等といった特定のジャーナリスト仲間に向けて残されたメッセージもあってリアル過ぎ!
中でも黒のサインペンで書かれた「Everyday is like morning without dawn」なる殴り書きのメモが強烈だった。
英語の書き方、表現の仕方がフランス人やアジア人っぽいが、「毎日が夜明けのない朝みたいなもんだ」という意味だろう。

現在のプノンペンにも当てはまる強烈なフレーズだった。

【注釈】
現在の「FCC」はトンレサップ川のリバーサイドでは有数のオシャレなカフェ・レストランに改装されています。
ボツ写真や取材メモによるインテリアは全て姿を消していますが、カンボジア内戦を今に伝える代表的ショットの何枚かが拡大、パネル化されて飾られています。

【1月26日(火)】衝撃のジーダイアリー創刊!

「チキショー、やられたよ!」
「俺は本当はこういうのをやりたかったんだ!」
「コイツは、バンコクの日本人出版界を変えるぞ!あ~ダメだ、絶対に勝てない!!」

出勤早々に臨時会議が開かれた際、とにかく編集長が喧しくてしょうがない。
編集長が手にしている物は、創刊されたばかりの「ジーダイアリー」という日本人向けの定期刊行雑誌だった。
編集部に「ジーダイアリー」を届けて臨時会議を開いた社長の方は、冷静な表情で「こういう編集方針に今まで気が付かなかったコッチが迂闊だったんだよ」とひとりごちている。
日本人女性編集員とタイ人女性通訳は、困惑しながらもノーコメントだ。
「チキショー」を連発しながらも編集長は「ジーダイアリー」を手放さないので、俺はなかなか中身をチェック出来ない!

アセアン諸国の最新レポート、旅あり飲食あり風俗ありの多彩なコラム、夜遊びマップ、夜遊び店料金表、煌びやかなカラオケ店の広告等、確かに逆立ちして読んでも観ても男心をわしづかみにして離さない切り口やテーマが満載だ。
たったの50バーツ(約150円)という売値を遥かに凌ぐだけの掲載情報価値がある。
シリアスモードと遊び心モードとのバランスもいい。
デザイン、レイアウトは粗さはあるが、却って記事にリアリティを与えている。
まだ40ページ程度だが、無駄なページがまったく無い!
いやいや、そんなことじゃない。
この「ジーダイアリー」という雑誌が放つ得体の知れないエネルギーが俺は恐ろしい。

ジーダイアリー・ショックが冷めやまぬ編集長は、会議終了後も「あ~もう俺はさ、今の仕事がツマンナクなってきたよ。俺は負け犬だ」と編集長らしからぬ無責任な言葉を吐き続けながら編集室内を右往左往している。
その言葉に反応したように、日本人女性編集員が俺にそっと呟いた。
「誰が勝つとか負けるとかじゃなくて、私たちは私たちの仕事をすればいいじゃないですか。あの雑誌と私たちは立ち位置が違うのだから、私たちの使命を全うしましょうよ」
彼女の言う通りだった。
今、我々に出来ることはそれしかないのだ。

夜中に一人で酒を飲みながら「ジーダイアリー」を鑑賞していたら、ようやくこの雑誌の放つ得体の知れないエネルギーの実体が見えてきた気がした。
どのページを開いても、バンコク、タイ、東南アジアの「風の音」「土の匂い」「空気の肌ざわり」から「地域に住む人の笑い声や泣き声」までが伝わってくる。
レポ全てが男の五感を刺激してくるって感じだ。
これは恐らくどの取材地域、どの製作作業に携わろうとも、自分の持ち場で奮闘する編集員たち全員の強い団結力が成せる業なのだ。
ならず者が一度昇天し、なにがしかの特殊能力を授かってから再び地上に舞い降りた、そんな連中が「ジーダイアリー」編集部に集結したんじゃないか?
そんな馬鹿げた事を想像したくなるような紙面から溢れ出るダイナミズム!
例えば一人だけ突出した能力を持った社長か編集長がワンマン編集をやったって、こんなダイナミズムは生まれてはこない。

「ジー・ダイアリー」の登場。
それはバンコクで編集業務に携わる日本人なら誰しも、一般読者とはまったく別次元で爆弾を落とされたような大事件であるに違いない。
バンコクで何をやるにもアクシデント、ハプニングがつきまとう俺にとっても、最大級の衝撃だった。
どう反応するべきなのかも見当が付かないってのが本音だ。
情けないが、まずは自分に与えられた仕事を誠実にこなしながら、遠からず起こるであろう「ジー・ダイアリー・シンドローム」ってのを静観するしかない。
心配なのは、我が編集長の驚くばかりの動揺ぶりだ。
典型的な感情直情型の方の様なので、よからぬアクションを起こさなければよいのだが。

【注釈】
「ジーダイアリ―」編集部に創刊号が保管されていたので、少々ご紹介します。
ページ数は表紙周りを含めて40ページ。定価50バーツ。特集は「カンボジア7月騒動のあと」。第二特集は「総費用5万円/ミャンマー珍道中・初体験ドタバタ騒動記」。その他「行って見て来て76県」「夜遊びマップ」「日本人クラブ料金表」「ガール・グラビア」「タイ三面記事」「(日本人クラブ経営者による)ばんこく遊び指南」「(「日本人レディーボーイによる)バンコク日記」等など、現在の一般情報紙及び夜遊び情報紙の切り口の原型の多くが登場しています!

【志賀健(シガケン)プロフィール】
1972年神奈川県生まれ。
元高校球児の左腕投手で、プロ入りを志望するも断念。
その後ロックンローラーに転身するも、またも挫折してアセアン放浪の旅へ。
以後フリーライターで食い繋ぎ、現在アセアン沈没中の生粋の不届き者。
ミレニアム前後から、日本の音楽サイト、アセアンの日本語情報紙等へ投稿経歴あり。

[連載]GIA アセアン近代史調査報告書の最新記事

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