序章「バンコク初体験」~20年前のバンコク・プライベート・ダイアリー~

投稿日 2018.07.03

GIA アセアン近代史調査報告書

皆様ご機嫌いかがでしょうか。
初めまして。
GIA 情報本部・アセアン近代史調査部 回顧課 第5班捜査課長の志賀健(シガケン)です。

この度「GIA (G-Diary Intelligence Agency)」情報本部に、「アセアン近代史調査部」が唐突に設立されました。
事の発端は、幸運にも「20年前のバンコク」の様子が書かれた日記の持ち主と私目が遭遇したからです!
日記の主は1998年にバックパッカーとして初めてタイ・バンコクの地に足を踏み入れ、カオサンやヤワラー(チャイナタウン)で沈没生活を送った後、バンコクで当時刊行されていた日本語情報誌の編集職に就いたという方。
ジーダイ創刊当時からの熱心な読者だったらしく、また既にバックパッカー兼フリーライターだった私といわば同業者だったことから会話が弾み、「匿名なら」「良識の範囲内なら」という条件付きで日記の貸出と一部公開を快諾して下さったのです。

私のバンコクの旧友たちは、不良沈没者から元駐在員まで多士済々。
彼らの多くは、こぞって「昔のバンコクは良かったな~」と回顧しています。
誰しも自分の過去を美化したがるものであり、私も年齢を重ねるとともにそんな気分になることはあります。
しかし20年前のバンコクでの生活ぶりが克明に記された日記を読むにつれ、思い出の色合いが激しく変わってきました。
美しい色の絵具が無数に散りばめられた思い出というキャンバスがグルグルと回り始めて混然と成り、やがてキャンバスが静止した時に現れたその色合いと図柄は・・・。

「本当に昔のバンコクの方が良かったのだろうか?」

「GIA情報本部アセアン近代史調査部」の名のもとに、この度入手した貴重な記録を紐解くことで、バンコクの20年前と現代とを参照しながら、読者の皆様と一緒に「近代バンコク」の実態を検証してみたい!
とりあえず初回は序章として、日記の主が20年前に初上陸したバンコクの初日と翌日の記述を紹介致します。
尚文中の【注釈】において、日記の主と私の記憶を併せた上での補足説明を付記しておきます。

【6月4日(木)曇り】アメイジング・タイランド!?

チャイナエアラインにて、午後5時過ぎ、台湾・台北からタイ・バンコク・ドンムアン空港到着。
初めてアセアン地域に入域したのに、気分が高揚してこない。
オレンジ色に染まり始めた夕空は綺麗だったが、空港内は一様に装飾が乏しく、照明も暗くて壁全体がくすんで見える。
「Amazing Thailand」のプレート表示だけがやたらと目に付くが、驚かせてもらえそうな期待など微塵も持てない淀んだ雰囲気が漂っている。
昨年東南アジアを襲った通貨危機のせいで、タイ全体が自粛ムードなんだろうか。
そう言えば、小説か何かに「バンコクの空港内は唐辛子の匂いがする」と書いてあったが、汚れの落ち切っていないまま乾かした洗濯物みたいな臭気しか感知できない。
それにしてもタイは「微笑みの国」らしいが、少なくとも玄関口である空港の職員はみんな仏頂面だ。

【注釈】
当時バンコクの国際空港は「ドンムアン」のみ。
聞けば、台湾でのストップ・オーバー込の東京(羽田)~バンコク間の往復フライトで約45,000円だったらしい。
まだLCC出現前の頃であり、この価格はかなり格安だろう。

【注釈】
「Amazing Thailand」とは、1997年アジア通貨危機で大打撃を受けたタイの政府観光庁が、外国人旅行者を大々的に誘致するために掲げたキャッチフレーズ。
観光庁の計画は、1998、99年の2年間で1,600万人の観光客の誘致だったという。

いきなりバックパッカーのメッカ「カオサン通り」を目指すのはダサイ気がして、列車でチャイナタウンへ。
国際空港直結の駅なのに、駅舎は掘っ立て小屋みたい。プラットフォームに降りると、全身にぶ厚い熱気が悪霊の様にのしかかってくる。
空のどこかで鳴っている雷鳴を聞きながら、待つこと約1時間。
ようやく姿を現した車輛の外壁には、一ヶ月ぐらい洗浄していないように汚れがこびり付き、まるで改造した貨物列車だ。
車内に旅行者はほとんど見当たらず、行商のオジサン、オバサンみたいな人ばかり。
彼らは食べたり飲んだり、煙草を吸ったりしているが、吸殻や食べカスの入ったビニール袋を、何の躊躇いもなく窓から車外へ捨てている。
自分だって褒められたモラリストではないが、呆れてしまうことしきり。

木偶の坊よろしく漫然と車窓を流し見していると、不意に近くで日本語らしき音声が聞こえた。
「ツカレタ?」。
振り返ると、ルビー・モレノの劣化版みたいな女性が至近距離から微笑んでいる。
厚ぼったい唇にひいた薄桃色のルージュが網膜を刺激してくる。
「ノミタイデスカ?」
彼女はぶっかき氷と茶色の液体の入った、透明の小さなビニール袋を目の前にかざして更に続けた。
「ニホンジンネ。カミサマ ミンナ ココロ イマス。ワタシ イエ カミサマ イマス イイトコロ。イッショ イキマスネ」
小首を傾げ、右手の掌を胸の中央に当てながら訴えかける仕草をしている。
何だこりゃ?

【注釈】
当時のタイの列車内は飲食、喫煙自由。
列車とは言っても、電車ではなくてディーゼル稼働列車。3等客車輛には当然冷房はなく、車輛内の異臭は尋常ではなかった。
通路は乗客のこぼした飲み物のせいかベッタベタ。
それでもタイ人たちは平然と新聞紙を敷いて座っていた。
客席は堅い板製の直角イスであり、一度この3等席でチェンマイまで行ったことがあるが、腰痛とケツ痛、更に暑さと臭さでウンザリしたものだ。

【注釈】
仏教国タイにもわずかながらキリスト教徒が存在するので、日記の主はキリスト教徒から勧誘を受けたのだろう。
私も偶然ながら1999年(11月)ラオスに向かうバスの中で同様の体験をしたが、日本人からするとやはりお色気勧誘ぽかった(笑)
チャンタブリー県にはタイ最大のローマ・カトリック聖堂「チャンタブリー処女降誕聖堂」があり、現在では多くのタイ人信者が礼拝に訪れている。
祭壇には亡くなったプミポン前国王の遺影も掲げられており、仏教とキリスト教が共存する不思議な大聖堂である。

列車は粗末なバラック街のど真ん中を通過し始めた。
バラックの前では爛熟したオバサンや、鼻くそをほじくっている幼女たちが、死んだ様な目をして列車の通過を眺めている。
「こんな所を通るのか!」
非常識と思える路線地に驚いたお陰か、暑さで機能停止状態のおつむが働き始め、劣化版モレノ嬢のミョウチクリンな日本語が理解できた。
「絶えて久しい逆ナンパかと思ったら、宗教の勧誘か・・・」。

列車の速度は終始時速30キロぐらいか、呆れるほどにのろい。
車内の弛緩した雰囲気にピッタリだが、都市の中心部に向かっているのに都落ちしている気分だ。
午後8時、終点のフアランポーン駅に到着。
劣化版モレノ嬢は、いつの間にか姿を消していた。

【6月4日(木)~続き】丹の熱風、見えないトラップ

バンコク中央駅―フアランポーン駅。
駅舎のデカさはドンムアン空港駅とは雲泥の差だ。
タイは前年に鉄道開通100周年を迎えたそうで、駅構内のあちこちに記念展示物らしき額装された駅や列車の写真が金色のモール付きでセットされている。
駅構内の空気は腫れぼったくてクソ暑い。
行き交う者の足音や話声が、高い天井に共鳴しているのだろう。
巨大な屋内競技場にいる感覚だ。
だが人々の歩みは一様にのろい。
こんなにチンタラ歩いていたら、新宿駅や東京駅の構内なら突き飛ばされるだろう。

「タクシー、タクシー」と運ちゃんたちが群がって来た。
全員見事に人相が悪い。
試しに、真っ黒に日焼けした安岡力也みたいな、もっとも悪党づらのヤツに付いて行く。
見かけによらず気が優しいのか、バックパックを抱えて運んでくれた。
程なくして目の前に現れたのは、停車中の三輪自動車(トゥクトゥク)。
三輪ミゼットの原型みたいにテキトーな車体なのに、堂々と「TAXI」のプレートを掲げているから笑ってしまったよ。
これがタイ流なんだろうな。
運ちゃんに「近くて安いホテルへ案内してくれ」と指示。

運ちゃんに連れて行かれた宿は「ニューエンパイアホテル」。
2階のフロントスペースは、白い壁とあずき色の床。
直前の逗留地、台湾・台北の安ホテルを思わせる雰囲気と、台北よりは安い一泊250バーツのお値段に即決。
フロントデスクの奥に貼り付けられた両替レートも「1円=0.342バーツ」と悪くはない。
とりあえずホットシャワーはチョロチョロ出るし、冷房は温度調整不可で稼働音が少し煩いが、まあ効いてはくれる。

夜9時過ぎに外出。
ホテルを一歩出ると、熱い湿気と排気ガスが、まるで気圧差攻撃を受けたように一気に襲いかかってきた。
最初の逗留地にチャイナタウンを選んだのは失敗だった。
無数に並ぶドギツイ電飾の看板は、何処にでもある中華街。
丹塗りの柱、金箔の看板を掲げた金行の多数が幅を利かせていて、街全体に香草や臭豆腐や漢方薬をごちゃまぜにしたような中華臭が蔓延している。
タイの情緒らしきものを感じない。
屋台でオレンジ3個、一羽丸ごとのローストチキン、雑貨屋でビールを買って早々とホテル帰還。

【注釈】
当時の日本人旅行者は、最低でも「1円=0.35バーツ」のレートの両替場を探していた。文中の「0.342バーツ」はホテルでの両替としては良心的。

【注釈】
「ニューエンパイアホテル」とは、ゲストハウスよりはマシな、現存する二つ星ホテル。
当時のヤワラーには幾つかの“いわくつき”ホテルがあったので貧乏旅行者の間で話題に上ることはなかったが、ヤワラー通りに面して立地も良く、従業員も親切(&おせっかい)でコストパフォーマンスは悪くは無かった。

列車代はわずか3バーツ、たった数分乗っただけのトゥクトゥクは100バーツ、オレンジが3個で50バーツ、デカイローストチキンが65バーツ、ビール大瓶1本45バーツ。
ホテルに戻った直後に老齢の男性従業員が連れてきた若いマッサージ嬢は1時間200バーツ。
撫でまわすだけの下手くそなマッサージだったが、チップに200バーツあげたらマッサージ嬢は“喜声”を発しながらむしゃぶりついてきた。
この国の物価指数がさっぱりわからない。

室内アンテナが乗っかった古ぼけたTVをつけると、下らないバラエティーみたいな番組か、歌番組ばかりだが、初めてまともに聞いたタイ語ってのは、女性が話すとおしゃべりな猫みたいでかわいいもんだ。
真夜中に再び男性従業員がやって来て「もう一人女はいらないか?」。
老人を邪険に追い払うのも気が引けたので、「簡単タイ語会話集」に記されていた「疲れたので寝ます」(タイ文字付き)の部位を指さすと、苦笑するばかりで意に介さない。
何度も指さした後、ようやく引き下がってくれた。

【注釈】
文中の表記価格は、定価あり、ボッタクリありで、タイ初入国者が混乱するのは無理もない(笑)
「ニューエンパイアホテル」の隣には、当時高名な?置屋「冷気茶室」(2015年閉店)があり、部屋にやってきたマッサージ嬢は、「冷気茶室」からの出張だったのだろう。
マッサージ代はボッタクリ、チップはあげ過ぎであり、何も知らない日本人旅行者が、ホテルぐるみでカモられている好例だ。

【注釈】
「簡単タイ語会話集」の提示に引き下がらなかったホテルの従業員だが、文字を読めなかったのだろう。
当時のタイ人全体の識字率は60%程度ともいわれていた。
もっとも「会話集」のタイ文字表記が間違っていたのかもしれない。

【6月5日(金)晴】静かなる“性地”ジュライ・ロータリー

午前9時起床。どうも二日酔いっぽい。
昨晩はタイ産ビール「シンハー」大瓶3本だけで酔っぱらった。
ラベルにアルコール度数表記が見当たらないが、日本のビールよりも度数が高く、ビターテイストが濃厚で後味が口の中にしっかりと残る。
珈琲が飲みたくて、蓬髪のままホテルを出てみると既にヤワラーは灼熱状態。
地獄の様に熱く、絶望の様に黒い珈琲が飲みたくなる。
台湾も連日35度越えだったので、滞在二週間で体重が5キロも減ったが、バンコクでも苦もなくダイエットが出来るだろう。

午後から、悪名高い「ジュライホテル」と「楽宮旅社」に行ってみる。
「ジュライホテル」は1995年10月に閉館しているが、建物はそのままだ。
置き去りにされた巨大なコンクリートの建物が、炎天下の中で声を失ったまま立ち尽くしている。
「楽宮旅社」は営業中だが、外観は干からびた死体のようだ。
入口横にゴミが溢れかえった麻袋が4つ放置されている。
ジャンキーたちが用済みになって捨てたブツが詰まっていると思うと、とても建物の中を覗いてみる気にならない。
階下の「北京飯店」も、人っ子ひとりいない。
「楽宮」同様にやる気がないのだろう。
店の奥に棺桶でも置いてあるようなひんやりとした妖気が漂っている。

以前から「ジュライ」「楽宮」には興味津々だったが、正直なところ踏み込んでみる勇気がなかった。
元来自堕落な性格だけに、一泊でもしようものなら、たちまち息を潜めて獲物を狙っている魔物たちにからめとられてしまっただろう。
「ジュライ」閉館後、一説によるとギャンブル好きは中国へ、女好きはカンボジアへ、ハッパ好きはラオスへ移動したとか。

【注釈】
当時のシンハービールはアルコール度数8~9%だった。
安価の「チャン・ビール」の登場で売り上げ不振に陥り、21世紀を機にライト化が図られた。

【注釈】
「ジュライ・ホテル」と「楽宮旅社」は、1970年代からハッパと格安娼婦目当てのバンコク沈没者たちで賑わった安宿。
有名な落書き「豊かな青春、惨めな老後」は、「楽宮」の客室に書かれていたと言われている。
「楽宮」も2005年前後に閉館しており、2002年に訪れた際は客室数が半分に縮小。残り半分は幼い娼婦を30人ほど抱える置屋のヤリ部屋になっていた。
尚、現在「ジュライ」の1、2階は、娼婦たちの連れ込み宿として稼働している。

蜘蛛の足の様な迷路でいっぱいのチャイナタウン/ヤワラーを、「ジュライ」前のロータリーを目印にして闇雲に歩き回ってみた。
鼈甲色の日だまりもあれば、化け物でも潜んでいるような暗がりもある。
熱気と涼気を交互に浴びているので、汗みどろのTシャツが気持ちの悪いへばり付き方をしている。
道幅の広い通りに出ると、どこも下駄ばき長屋みたいな埃まみれの連棟建造物ばかり。
店なのか作業場なのか分からない数々のスペースには、セメント袋、土嚢、ニクロム線、機械部品、壊れた(?)家電、乾物等が山積みにされている。
人々は至って寡黙であり、屋台で食事をしている若い女性たちにも会話がない。
ここら一帯は無駄口をたたくと罰金を取られるのか、「ニューエンパイアホテル」周辺の喧騒とはあまりにも対照的だ。
「ジュライ」や「楽宮」の住人たちは、案外この昼間の静けさを好んでいたのかもしれない。

建物の暗がりで一服しているやせぎすの中年女性がいる。
喫煙場所なのだろうと近づくと、彼女はニコっと笑って手招きをしてきた。
「まさか、また宗教の勧誘か?」とも思ったが、えんじ色のTシャツに白のホットパンツ姿で壁に寄りかかり、両腕を胸の前で交差させながら右手で煙草を吹かすその佇まいは明らかに娼婦だった。
彼女の足元では、体育座りをした太った別の女性がコンパクトミラーでお化粧チェック中。
ホットパンツのオバサンはトカゲの胴体みたいな左指を全部開いて見せ、ひどくしゃがれた声で「ファイブ・ハンドレッド・バーツ」。
欲望とはどのような状況や環境にあっても衰えないというが、それは嘘だ。
時刻は午後2時過ぎ、日もまだ高い。

つづく

【注釈】
20年前のヤワラーの昼間の立ちんぼ嬢で500バーツはボリ過ぎであり、相場はせいぜい200バーツだったはず。
娼婦は日記の主をオノボリサンと見たに違いない!?

【プロフィール】
志賀健(シガケン)
1972年神奈川県生まれ。
元高校球児でプロ志望も断念。
ロックンローラに転身するもまたも挫折してアセアン放浪の旅へ。
以後フリーライターで食い繋ぎ、現在アセアン沈没中の生粋の不届き者。
ミレニアム前後から、日本の音楽サイト、アセアンの日本語情報紙等へ投稿経歴あり。

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