第6回「雨の日の女たち」~20年前のバンコク・プライベート・ダイアリー

投稿日 2018.09.18


ラオスへの小旅行を終えてバンコクに戻って来た筆者。
ご本人は既にバンコク生活に慣れたと思っていたようですが、やっぱりまだまだのご様子!
甘い誘惑に財布の紐は緩み、バンコクならではの新たなる驚きにも遭遇しています。

【日記/(匿名)】
【構成、注釈、写真/志賀健(GIA捜査官)】

【8月25日(火)】またまた“カモられてバンコク”

ラオスには“規定通り”二週間きっかり滞在してから三たびタイに入国した。
パスポートに書き記されたラオスの滞在期限は「9月9日」だったが、やはり正式な規定に従うべきであろう。
「これは(ラオス入国時の)イミグレ担当者の書き間違いですよ。トラブルが起きても我々は関係ないですから」という日本大使館員のアドバイス、というよりもあまりのそっけない応対が却って規定を守らせる気分にしてくれたようだ。

ラオスでは禁欲生活を貫いただけに、タイに入った途端に女性の肌が恋しくなってしまった。
ノーンカイからバンコク行きのバスの中では、隣の席に座った若いタイ人女性が話し相手になってくれたので超ラッキー!
バンコクへの行路は途中から大雨となったが、少しだけ英語が話せた彼女のお陰で晴れやかな都上り気分となった。
バンコクのバスターミナルでの別れ際、彼女は「マッサージ店で働いているから必ず来てね」とお店の名刺の裏に自分を名前を書いて差し出し、そして実にスムーズな動きで俺の頬っぺたにチュッ。
雨による湿った空気のせいか、香水の香りが濃厚に漂ってクラクラきた。
名刺には「チャオプラヤ3」なる店名が刷り込まれており、カオサンに着いてから宿の顔馴染みに聞いてみると、「チャオプラヤ3」はマッサージパーラ―であることが判明。
途端に彼女の「チュッ」の感触と香水の香りが蘇ってきて、雨を突いて本日「チャオプラヤ3」へ行ってしまった。


大きな金魚鉢の中で客待ちをしている泡姫たちを見ていても、一体誰が彼女なのかが分からない。
彼女の名前が書かれた名刺を案内人に見せようとすると、彼女の方が俺に気が付いてくれた。
ドギツイ化粧とセクシードレスの彼女は、バスの中でのTシャツとジーンズ姿の快活な彼女とは別人の様に見えた。
雨の中で店にやって来たことを彼女は殊の外喜んでくれて、約一時間かけて濃厚なサービスをしてくれた。
「これはこれで、旅の良い思い出になったなあ~」などと無邪気に感慨にふけっていると、彼女は急に空腹を訴えてきた。
「ご飯を食べたいからもう帰って」って合図なのかと思ったが、そうではなくて「ご馳走せよ!」だった。
彼女はルームサービスでビール1本、タイ料理を3品もオーダーしやがったので、本来1,300バーツ+チップのはずが、予想外の倍額近くの出費になってしまった。
ちょっと気を抜くと途端にタイ・レディにかもられてしまうな、俺は。
まだまだ夜遊びシロウトってことだ。

【注釈】
当時からラオスにおける日本人旅行者のノービザ滞在期間は二週間であり、筆者の記している通り、30日間の表記はイミグレ担当者の書き間違いでしょう。
私個人としては、表記通りに二週間以上滞在して頂き、出国の際のイミグレの対応を知りたかったですね!
旅行者の滞在期限を書き間違えるとは、さすがはのんびりしたラオスのお国柄!とでも言いましょうか。また当時はうっかり1万円札を両替してしまうと、ぶ厚い束になったラオスキープが戻ってきて、丹念に枚数を数えてみると2~3枚多かったり少なかったりしたものです!

【注釈】
「チャオプラヤー3」は現存するMP。カオサンからもっとも近いMPかと思います。
また当時は、バンコク中心地にある「1」「2」よりも泡姫の容姿のレベルが高かったはず。
ただし当時の値段は1,100バーツだった様な記憶があり、筆者は受付時にしっかりボラレテいます!

【8月28日(金)】衝撃のタイ人女性住居アパート宿泊事件!?

昨夜は初めて「サイアム・ホテル」から女性を連れ出してみた。
日本の上野界隈で働いていたという彼女は日本語が上手であり、コミュニケーションに手間取らなかった。
夜の世界で働くタイ人女性の生活ぶりを覗いてみたかったので、ものは試しで「ホテルはつまらないから、君の住んでるアパートに行ってみたい」とお願いすると、彼女はあっさりとOKしてくれた。
お値段はショートで1,500バーツ。
ホテル前からタクシーで約20分、プラカノンとかいう地域にある彼女のアパートは、築20~30年は経過していると思われる薄汚いオンボロ・マンション風。
室内の照明はスイッチを入れてから点灯するまで1~2分を要し、木製のクローゼットやベッドはガタピシ、壁のペンキは所々剥がれかかっている。
シャワールームもタイルが数多く剥がれて四隅には黒カビが目立ち、チョロチョロな水シャワー仕様。
家賃は月2,500バーツと聞いたが、これが男の前では愛想よく振舞っている夜の女たちの標準的な生活レベルなのだろうか。
それにしても、よくもまあこんなオンボロ部屋をお客に堂々と見せたものだ。

俺は既に相当な量のビールを飲んでいたので、彼女のベッドで事を済ますと急激に眠くなってきたのでそのまま一晩この部屋にお世話になることにした。
「ロング扱いになるよね」と聞くと「オカネ イラナイヨ アサマデ ネル イイヨ」と彼女は快諾し、1,500バーツを払ってから遠慮なく眠らせてもらった。
午前3時頃だろうか、凄まじい雷鳴と大雨の轟音で目が覚めた。
彼女も目を覚ましていたようで、俺の胸元に顔を埋めながら「コレカラ オモシロイコト オキルヨ」と含み笑いを始めた。


おもしろい事?
約30分後、大雨の轟音が弱まったところで彼女が部屋の照明を付けた瞬間、信じられない光景が視界を占領した。
部屋中が水浸し、いや洪水状態なのだ!
しかもその水位は、足首まで浸ってしまうぐらいだ。
天井から雨漏りはしていないし、窓も閉めてあったので、この大量の雨水は一体どこから流れ込んできたというのだ。
しかもこの部屋は5階だから、この高さまで水没しているはずもないからとんでもない欠陥建築のアパートだ!

彼女は何食わぬ顔しながら、デッキブラシを持ち出してベランダへ向けて部屋中の排水作業を始めた。
部屋の出入口の扉を開けてみると、やはり5階の通路全体が川に様変わりしていて、彼女一人の排水作業など焼石に水だ。
恐らく彼女は、俺に対して体裁が悪くて無駄な事でもやってみせているのだろう。
堪らなく彼女が可哀想になり手伝いをしようとしたら、笑顔で制された。
「ダイジョウブ ダイジョウブ デモ サカナ(魚)イナイヨ ツリ(釣り)デキナイヨ ネル イイヨ」
彼女のジョークに胸がつまってしまい、笑顔を返すことが出来なかった。

翌朝、水が完全に引いた部屋の床には洪水の痕跡が残っており、彼女はあらためてお掃除を始めた。
バケツに入れた水道水を何度も床にぶちまけては、デッキブラシで床を磨き続けている。
普通の日本人なら「衛生状態が悪くて病気になりそうだ」とわめき散らすところだ。
しかし雨季になるとこんな生活環境を強いられるこのアパートの住人にとって、部屋の洪水なんて当たり前の出来事なのだろう。
タイ人の逞しさを知らされた一夜だった。

それにしても、マッサージ・パーラー、冷気茶室、ナナ・プラザ、サイアム・ホテル、俺の“タイ風俗の初体験”には必ずアクシデント、ハプニングが付いてくる。
もし俺が短期旅行者であり、行き当たりばったりの風俗巡りをしている身だったならば、タイに対してどんな感情を抱くことになっただろうか・・・。

【注釈】
「サイアム・ホテル」とは、当時ペッブリー通りにあった「テーメ―・カフェ」同様の援交カフェ。
ホテル1階のカフェにフリーの娼婦が集まってきて、男性客はカフェのテーブルについてドリンクを飲みながら女性たちと交渉していました。
その雰囲気は当時の「テーメ―・カフェ」よりも明るくて和やかでした。
21世紀初めに「サイアム・ホテル」の建物自体が取り壊されることになり、カフェの閉店を嘆いた愛好者は数多くいたものです。

【9月3日(水)】コイツを採るなら、俺は辞める!

毎晩性懲りもなく夜遊びに耽っているので、ここらでアルバイトでもしないと灼熱のバンコクで干上がってしまう日も遠くはあるまい。
そこでバンコクの日本語情報紙「W紙」の編集長W氏の紹介により、新規編集員を募集している別の情報紙「B紙」の事務所にお邪魔することになった。
W氏とのお付き合いの始まりは、スクンビット通りにある日本料理店「Z」のママさんによる引き合わせだった。
W氏は自分の編集部には募集はないが、ご親切にもB紙を紹介してくれたのだ。

B紙の社長様と約1時間の面接の後に運良く採用決定が下された。
しかも編集長代理で働いてほしいとの有難いお言葉を頂戴した。
只今B紙には編集長がいないのだそうだ。
「履歴書を見ましたけど、あなたは字が綺麗ですね。そういう方は信用できます」とまで言って頂いた(笑)
ガキの頃、お袋から「お前は左利きから右利きに矯正したから字が汚い。だから右上がりで縦長の字を書きなさい」と毎晩練習させられた甲斐があったな。
しかしタイ語も話せず、バンコクの地理すらよく分かっていない自分が編集長代理なんて出来るのだろうかとポカ~ンとしたものの、お給料は25,000バーツ頂けるそうなので渡りに船だ。
過日、タイではまだDTP作業が出来ない事を知って愕然としたが、アナログ作業だろうが何だろうがやるしかない。
背に腹は代えられない。


やがて社長様は若い日本人編集部員を2人連れてきて紹介してくれた。
しかしここから事態が急変してしまった!
1人の編集部員が、俺の採用に強引に反対し始めたのだ。
理由はただ一つ、俺がタイ語がまったく話せないからだ。
彼はテーブルをひっくり返さんばかりの勢いで、「タイ語が話せない者を編集長にするならば自分は今すぐに辞めてやる!」と鬼の形相で喚き散らした。
更に黙りこくっていたもう一人の編集部員に対しては、「編集長無しで頑張って来た俺たち2人の今までの苦労はどうなるんだ!」と激しく同意を求めている。

あまりの彼の剣幕に唖然としてしまい、弱り切った社長様は「申し訳ない。採用については後日あらためて連絡します」」と本当に申し訳なさそうに言った。
何も悪いことはしていないのに、一方的に悪人扱いをしてくる様なクソガキなんざとうまくやっていけるはずもない。
「今日のお話は無かったことにして下さい」と俺の方から社長様に丁重に採用のご厚意をお断りした。

何だかやり切れない気分になり、パッポン通りにある「ミズ・キッチン」に寄って名物のサバステーキを食べて腹を満たすことにした。
サバステーキのお味もさることながら、年老いた店主さんの笑顔と世間話がささくれだった俺の神経を和ませてくれた。
噂によると、ここのサバは俺が新入社員として入社した食品商社の東南アジア倉庫に保管されている冷凍サバを使っているらしい。
「ミズ・キッチン」のお陰で冷静になれたのか、食品商社に勤めていた時代やそこから転職した時代が思い出されてきた。
「日本の会社だったら、あんな即決採用やそのどんでん返しを短時間の内に受けることなんかないはずだ」
「しかしあのクソガキ、感情論で社長決定を覆そうなんていい度胸してやがるな」
過日は人材派遣登録センターで「レベルが高過ぎるからダメ」って思いもよらぬダメ出しを食ったし、夜遊び同様に、タイの就職活動もまったく何が起こるか分からないものだ。

大空の何処からか雷鳴が聞こえてきた。
つい先日、洪水状態の自室の中でも笑顔で接してくれた彼女に無性に会いたくなってしまった。
今夜はホテルに誘おうかな。

つづく

【注釈】
当時のタイでの日本人現地採用者のお給料の手取り額としては、25,000バーツは平均レベルと思われます。
労働許可証が発行される現地採用者のお給料は、当時は確か最低40,000バーツとの規定がありましたが、実際に40,000バーツ支給される者は多くはなかったものです。
ちなみに当時のタイ人労働者の世界では、「月給30,000バーツ以上」が勤め人として成功者とみなされる基準でした。

【注釈】
筆者に確認したところ、後日別の情報紙編集部に入社して、更に3年後に情報紙を印刷する印刷会社を変えたら、そこの日本人担当者がかつて筆者に向かって「採用反対」を叫んだ本人だったそうです。
別人の様に柔らかく親切な応対をされたとのことです!

【注釈】
人材派遣登録センターでのダメ出しに関しては、第3回内「喜べない優越感」を参照。

【プロフィール】
志賀健(シガケン)
1972年神奈川県生まれ。
元高校球児の左腕投手で、プロ志望も断念。
ロックンローラーに転身するも、またも挫折してアセアン放浪の旅へ。
以後フリーライターで食い繋ぎ、現在アセアン沈没中の生粋の不届き者。
ミレニアム前後から、日本の音楽サイト、アセアンの日本語情報紙等へ投稿経歴あり。

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