第13回「まさかこんなことになるとは・・・ アムという女」

投稿日 2018.07.31

タイの考察 〜オンナとタカダと、時々、チョメチョメ〜

結婚を考えたときに出会ったのがアム

前回、スが出て行ってからオレはもっとまともな女性とつき合いたいと考え始めていた。
というのは、2回目に登場しているワンに追い出されて一時期はカオサン通りの住人になっていたわけだが、そのときの遊び仲間のひとりが実はスと関係していた。
オレがスと知り合うずっと前のことで、オレがとやかく言うことではなく、そこはどうでもいい。
気になったのは、武勇伝のつもりかその人はHIVキャリアとゴムなしで寝たことを自慢していた件だった。

彼はイケメンで、わざわざ夜の女性をターゲットにナンパする必要もないのだが、とにかくたくさんの女の子と遊んでいた。
ゴーゴーで客を観察しているとわかるが、案外、国柄で女性のストライクゾーンは限定されるものだ。
我々日本人から見るとあまり美しくない女性も、欧米人からはものすごく美しく見えるということは多々ある。

若い2人

結婚してまだ2ヶ月目くらい。当時はオレも会社員だったのであごひげがない。

今もあるのかどうかはわからないが、スクムビット通りソイ3の「グレースホテル」のカフェは少なくとも2003年は援交カフェとして有名な「テーメー」と同じような場所だった。
そのカフェの近くから階下に降りると中東人向けのマッサージパーラーがあって、一度だけ覗いたことがある。
そこには美しい水色の衣装を纏ったジャバ・ザ・ハットみたいな女がひとり、鎮座していた。

国によって女の好みというのは違うのだと痛感した瞬間だった。
ということは、スと関係していた飲み仲間に仮にHIVが感染していたとしたら、知らずに日本人社会にHIVが蔓延する可能性がある。
そう思ったら、もう夜遊びなんて無茶なことはやめようという心境に至った。
ちなみに彼はその後HIV検査を日本で行い、陰性だったようだ。

それから、カオサンの飲み仲間たちを見ていて、オレもあの年齢になったときに同じように遊んでいられるのだろうかと漠然と不安にもなった。
当時オレは26で、ほかは30歳前後から上だった。
なんか、ああはなりたくないと思い、ちゃんと結婚しなければならないと考えた。

アムの親戚たち

アムの親戚たちと。この子どもたちはもうすでにオレより背が高い。それだけ長く結婚生活が続いているのか・・・・・・

ただ、結婚となると、今日出会って明日挙式というわけにはいかない。
タイ語ができるからこそ文化的な違いが決定的であることを身をもって知っていたし、タイの結婚で重要なのは「外野」であることも段々とわかってきた。
そういう点では何人かの夜の女の子の実家を見に行ったことは間違っていなかったと言える。
本人同士がよくても周囲の人間が悪いと結婚はうまくいかない。
タイ人はどんなにひどい人物であっても家族なら見捨てないことが多く、夫婦間に亀裂が入っていく。

そんな結婚願望が強くなっていたときに出会ったのが、アムという女だ。
彼女は2018年7月末、この記事を書いている時点でもオレの妻として一緒に生活をしている。

かつてのアム

かつてアムはこんなに細かったんだが・・・・・・

ウブすぎて全然相手にされていなかった当初

アムに出会ったのは2004年1月のことだ。
スが出ていき、実はアムと出会うまでの間に「伊勢丹」の前のビアガーデンでカールスバーグのブースでチアビアの女の子と親密になっている。
今も11月12月に行われるタイ最大のビアガーデンは、2006年の年末年始の爆弾事件以前は乾期に入ってからバレンタインくらいまで営業していた。
そこで12月上旬に出会った女の子にハマって、ついにオレにも素人の彼女ができる、と思っていたが、だめだった。
当時、全然金がなかったため、それがわかると電話にも出てくれなくなった。

その年末にはナナの「ハリウッド」で女の子と仲よくなった。
このハリウッドはナナの3階にあり、今は「ビルボード」になっている。
ここでずっと前から目をつけていた女の子に声をかけ、どうにかうまく行きかけたが、これもだめだった。
まるでアムに出会うためのセットアップが行われていたかのようだ。

アム

かつては蚊の鳴くような声で話すか弱い女だったアムも、今では警察に交通違反の罰金を払いに行きつつこの態度だ。

今でも憶えているが、2004年1月4日のことだ。
「かつて住んでいたアパートの隣に住んでいた元タニヤ嬢の賭けトランプ仲間の姪」という、口頭で説明すると絶対に聞き返されるような間柄で、ある日のある集まりで会った。
あのころ、オレの中で美人あるいはかわいいはどの要素を持ってしてそう感じるのかと考えた結果「額が広い」という謎の結論に至っていた。
それにドンピシャに合ったのがアムだった。
初めて会ったあの日――といってもひと言も話していないので、会ったというか、見かけた日だが、オレはこの子と結婚するだろうと思った。

そんなこともあって、なにかにつけて会うたびに話しかけたが、最初の10回くらいはすべて無視された。
アムは当時23歳の大学生で、外国人と話したことのない、ウブな子であった。
携帯電話もなく(当時は珍しくなかった)、会ったときに話しかけるしか接点がなかったため、オレも必死だったのかもしれない。

そうして、なんだかんだのうちに話せるようになり、つき合えるようになった。
そうして、これで間違いなく結婚すると確信した。
ちょっと生々しい話になるが、アムにとってはオレが初めての相手であったというのも決定的な出来事だった。
結婚願望の出発点が日本人社会のHIV蔓延から逃れるためというのもあったので、エイズ問題から解放されるとオレは喜んでいた。

ややグダグダな状態になったのちに結婚

アムがまったく日本に興味がなかったのも、アムがいいと感じた理由のひとつだった。
オレとしては日本から逃れるために移住をしたタイだ。
だから、下手に日本語を話したり、興味を持たれると面倒だったのでちょうどよかった。

ときにはアムの実家にも行ってみた。
アムの親戚は祖父母クラスになるとほぼなにを言っているかわからなかったが、母親、姉弟や種違いの妹ふたり、いとこ、そのほかの人も問題はなかった。
まったく問題がなさそうというわけではない。
というのは、叔母のひとりの旦那は栃木で10年以上不法就労しているということで、なにかあるかもしれないという不安はあった。
しかし、結局はそれほど大きなトラブルはなかった。
アムの父親はアムが子どものころに離婚していて、結婚する前に他界しているため、オレは会ったことはない。

バイクに乗るアム

アムの叔父はオレと同い年だったりする

それから、日本にも連れて行った。
2005年の春先だった。
当時は日本大使館がアソークにあり、領事部は「サーミットタワー」の中だった。
ビザも現在のように旅行代理店代行ではなく、領事部へ直接申請となっていた。
当時は普通のタイ人は日本の観光ビザなんかは取得できないと言われていたものの、学生だったことと、愛知で万博が開催されていたからかビザは簡単に取得できたし、無料だった。
当時はネットが今ほどしっかりしていなかったというか、自宅にパソコンなんてなかったのでなにがあって無料だったのかは今もわからない。

そうして日本に連れて行き、オレの両親とも打ち解け、パスポートも取得したことのない父親までがタイに興味を持つほどに仲よくなって、いよいよ結婚へ突き進むことになる、はずだった。

大学を結局卒業できなかったアム

オレは人にとやかく言われると途端に嫌になってしまうという性格である。
実はアムの母親と結婚の話になったときに、ちょっと揉めた。
向こうはタイの一般的な結婚式をするべきだと言い、オレはそんなことはしたくないと衝突してしまった。
最終的には2006年に入籍をするだけで結婚式はしていない。
アムが25歳を過ぎたあたりでアムの一族も態度が軟化し、結婚してくれるならもうそれでいいと言い出したからだ。

タカダ氏の両親とアム

旅行ついでに戸籍謄本などを持ってきたオレの両親とアム

オレの両親も籍はどうするのか、式はどうするのかといったことを言ってきたが、もう周囲も結婚にゴーサインを出していると、なんか面倒になってきてしまった。
そもそも、アムは大学8年生で、それどころではない。

アムはオレと知り合った段階ですでに友人らはあらかた卒業してしまい、友だちがいないというしょうもない理由で通わなくなった強者だ。
それでもオレが学費を払ってあげて、なんとか卒業するように言った。
7年生になって単位は残りわずかだから余裕と言い放って、アムはいよいよその重い腰を上げた。

強化講習の1,000バーツを出してあげ、いざ試験当日、オレが仕事から戻ると暗い部屋でアムは泣いていた。
強化講習は実はよくある山かけの講習であり、その箇所が1問も出なくて試験は絶望的だと言った。
いや、ほかの部分は自分で勉強してたんじゃないの? と訊けば、一切やっていなかったらしい。
ある意味天才である。

だから最後の年度で(タイも留年4年がマックスなのかは知らないがそう思っていた)なんとか卒業を、と思っていた。
そんなとき、両親がタイに遊びに来て、そのときに戸籍などの書類を持ってきて、オレもやっと婚姻届を提出した。
ちなみに業者に頼むと金も時間もかかるため、すべて自分でやった。
2006年5月のことだ。

婚姻届を提出に

婚姻届提出でアムの戸籍などを変更しに田舎に。当時はオンライン化されていなくて面倒だった。

同時に妊娠が発覚した。
ちょうどタイ側の婚姻届が受理された日に、半月くらい吐き気が止まらない状態が続き、妊娠しているのでは? と思い検査したのだ。
だから、一応言っておくが、オレとアムはできちゃった結婚ではない。
運よくというか、子どもが生まれたのが12月だったため、ギリギリで入籍と同じ年度になった。
だから、オレもアムも今では結婚記念日なんていつだったかは忘れたが、子どもの年齢がイコール婚姻継続年数であるので、憶えやすくてよかった。
ただ、アムは大学を卒業できなかった。

これまでタイでつき合ってきた女性のことを書いてきたが、アムこそ前編後編どころか数回に分けるほどのエピソードが山ほどある。
でも、この話はオレにとって一番生々しくて書きづらいので、とりあえずアムとの話はここで終わりにしたい。
2002年にもう日本には帰らないというつもりで移住してきたが、その4年後に結婚するなんて。
人生ってわからないものである。

【プロフィール】
高田胤臣(たかだたねおみ)
1977年東京都出身のタイ在住ライター。
1998年初訪タイから2006年に結婚するまでにゴーゴー嬢、タニヤ嬢、マッサージ嬢など夜の女の子と一通りつきあい、タイの低所得者層から中流層の生活を垣間見てきた。
著書に「バンコク 裏の歩き方」や「東南アジア 裏の歩き方」など彩図社の裏の歩き方シリーズ関連、Amazon Kindleの電子書籍など。

タイ在住17年が送るバンコク夜遊びガイド『バンコクアソビ』電子版も販売スタート!

バンコクで遊ぶなら必読! – 『バンコク 裏の歩き方 [2017-18年度版]』

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